神経症とは

神経症とは、生まれつき物事を気にしやすく、心配性という素質を持った人が、誰にでもある睡眠不足、体調の違和感、人の視線、さらにガス栓の確認や鍵のかけ忘れなど、その人にとって最も大切だと考えている一点を非常に気にして、それを異常だと思い込んで取り除こうとするところから始まります。そして、この不快な感情をあってはならないと取り除こうと努力すればするほどその不快な感情は強大化し神経症の“とらわれ”に陥ります。この神経症の苦悩から解放されるためには、まず何よりも神経症の本態(メカニズム)をよく理解し、認識の誤りを正して努力の方向を修正し、症状はあっても日々の生活に必要なことを実践していくことです。神経症の本態を学習によって理解したら、それを実行することです。学習と実践の繰返しが大変重要です。

  • 神経症は誤った認識と方向違いの
    努力から

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    テレビや新聞雑誌の事件報道で、「原因は精神疾患」という言い方をしていることがありますが、神経症は精神病ではありません。また、身体の病気でもありません。では神経症とはどういうものでしょうか。
    神経症とは、「人間性に対する誤った認識に基づく精神的なからくりによって生ずる」ものです。 健康な人なら誰にでもある、またなくてはならない心理的あるいは生理的な現象を、異常と思い込んでしまうこと、これが「人間性に対する誤った認識」です。 これはとんでもないことになった、何としても治さなければとあがけばあがくほど、神経質症状が強まり、深みにはまっていきます。すなわち、誤った認識と、方向を迷った努力から発生するものなのです。
    この状況を打開するためには、まず認識の誤りを正さなければなりません。それには、人間における自然の姿をよく知り、どうして症状が起こるかを知るとともに、努力方向を正して「なすべきをなす」という前向きな実践が大切です。この正しい認識と実践が融合してはじめて、神経症から解放されるようになります。森田療法理論は、この道を照らしています。

  • 神経症になる外的・内的要因

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    神経症に苦しむ人には、ある種の性格傾向が認められますが、それがいわゆる神経質性格と言われています。では、神経質性格の人はみんな神経症に悩むのかと言うと、そんなことはありません。次のような条件が重なったとき、はじめて神経症になるのです。 
    まず第一に、外的要因として、やっかいな環境や状況に置かれた場合です。たとえば、就職、結婚、出産、退職などといった人生の節目、昇進や転勤、病気や親しい人の死といった環境や身辺の大きな変化が、そうした外的要因になります。
    次に内的要因としては、

    • ①神経質性格と幼弱性が結びついてマイナス方向に傾いたとき
    • ②ものごとや環境にうまく対処できないのではないかと適応不安を感じたとき
    • ③「かくあるべし」といった観念に縛られて人間性に対する誤った認識をもったときなどが挙げられます。

    次に内的要因としては、

    • ①神経質性格と幼弱性が結びついてマイナス方向に傾いたとき
    • ②ものごとや環境にうまく対処できないのではないかと適応不安を感じたとき
    • ③「かくあるべし」といった観念に縛られて人間性に対する誤った認識をもったときなどが挙げられます。

    このような外的要因と内的要因が重なり合ったときに、当然生まれてくる感情や生理的な変化を、「他の人にはない異常なもの、あってはならないもの」と認識する誤りが、神経症の始まりです。そうした感情や生理現象を取り除こうとしても、それは当然あるべきものをなくそうという不可能な努力でしかありません。それなのに、取り除こうとますます注意をそこに集中するから、あがけばあがくほど症状の泥沼に陥っていきます。このような精神的なからくりのせいで、何十年もの長い歳月を苦しんで過ごす人もいます。
    神経症に苦しむのは嫌なことに違いありません。しかし、それは人間というもの、自分というものを正しく知って、自分や周囲の人たちを活かしていく道を開く貴重な機会でもあるのです。

  • 神経症は不可能への挑戦

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    「神経症」は、生まれもった素質に加え、あることにとらわれることによって起こってくるもので、いわゆる器質的な疾患ではないと言われています。
    たとえば、人前で緊張したり、あがったりすることは普通の人なら誰にでもあることです。これだけでは「神経症」ではありません。「神経症」になる人は、人前で「あがる」ことを異常と思い込んで、あがるまいとすることによって神経症の「症状」を形成してしまったのです。

    このような悩みに落ち込む人びとには、よく似かよった性格の特徴があります。向上欲や完全欲が強い一方、高望みしすぎて自己嫌悪、劣等感に陥り、結果として仕事を放り出してしまったりする。理知的だが、行動力、決断力に欠ける。まじめで自分の感情を抑えるが、悩みで胸が一杯なので、結果的には自己中心的にふるまってしまう。徹底的だが融通の利かないところがあります。

    そして「神経質」な人びとは、不可能なことを可能にしようとして必死になる傾向があります。例えば、たがいに視線があうとバツが悪くなって瞬間的に目をそらすのは、誰にもあることなのに、それではいけない、相手の目を見なければと努力する。するとそのことがますます気になる。悪循環がはじまって「視線恐怖」という症状が固まっていくのです。

  • 神経症は病気ではない

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    「神経症」は、生まれもった素質に加え、あることにとらわれることによって起こってくるもので、いわゆる器質的な疾患ではないと言われています。
    たとえば、人前で緊張したり、あがったりすることは普通の人なら誰にでもあることです。これだけでは「神経症」ではありません。「神経症」になる人は、人前で「あがる」ことを異常と思い込んで、あがるまいとすることによって神経症の「症状」を形成してしまったのです。

    このような悩みに落ち込む人びとには、よく似かよった性格の特徴があります。向上欲や完全欲が強い一方、高望みしすぎて自己嫌悪、劣等感に陥り、結果として仕事を放り出してしまったりする。理知的だが、行動力、決断力に欠ける。まじめで自分の感情を抑えるが、悩みで胸が一杯なので、結果的には自己中心的にふるまってしまう。徹底的だが融通の利かないところがあります。

    従って、身体のどこが悪いとはっきりしている器質的な病気ではなく、どこも悪くないのに病気だと思い込み、それを治そうとするのが神経症の特徴ということが分かります。
    ゆえに森田博士は、神経症は病気ではないと断言しており、病気としてみると治らないが、病気ではないとして扱えば容易に治ると言っています。そして「神経症」になる大きな要因として、その基盤に強い欲求があるためで、その欲求が症状のためにおびやかされると間違って受け取ってしまうからだとしています。
    また同時に、神経質という素質は、強い向上欲があるのと同時に強い抑制力と反省心があるので、反社会的な行動をすることが少ないという大きな長所があることも事実です。そしてその強い欲求は自分にとってマイナスと感じることを取り除いて幸福を掴もうとするのではなく、どこまでも強い欲求を伸ばすことによってそれを実現するしか方法がありません。