神経症とは(詳細)

森田博士は神経症について次のような例でも説明しています。

  • 神経質症状の発展

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    神経質の症状は、どうして起こり、いかにして発展していくものであるか、その一、二のものを説明すれば、その他の症状は推して知るべしである。今たとえば頭痛、不眠、心悸亢進とか言うものについて説明してみよう。
    例えば朝寝坊したり、ノラクラと寝たり起きたりしているとき、試験の勉強をしたとき、あるいは流感の後、あるいは産後まだ日が立たないときに何か少し無理をしたときなどに、頭が重かったり、痛んだりすることは、常人はこれを当然のことともなんとも考えずに、そのままに看過しているから、その時々に忘れてしまう。それなのに神経質の人は、これに注意を傾注し、さらに苦痛を気にし、病を恐れるから、ますます種々の感じの細かいことまでも分かるようになる。この、注意すれば感覚が鋭敏になり、感覚が強くなればますます注意がその方に集中するようになるという交互に発展していく関係を、私は「精神交互作用」と名づけて神経症状発展の説明を試みたのである。
    このために神経質はたえず頭痛に悩むようになり、これを病と思って恐れ、自分が人並みに活動ができず、勉強のできないことを悲観して、もっぱらこれを治そうとすることに執着し、精神交互作用はますます発展して、治療法を講ずれば講ずるほどいよいよ複雑な症状になって、若い時の永い年数をこのために犠牲にするようになる。 睡眠不足のためかと思っては長寝をし、働いたり勉強したり、ものを気にしたりしては病にさわるかと迷妄してはますますダラシない生活を送るようになる。ダラシなくなれば、身体精神の働きはますます委縮し荒廃して、何事にも耐えられなくなり、頭の重いことはますます常住になってくる。患者は一途に病のことのみに執着しているから、こんな平凡なことにも少しも気がつかない。

  • 自然の心

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    我々の心は、日常の生活においてつねに外境に牽制され、また自らしようとすることには、常にその目的物に対して注意が集注されている。私はこれを意識の目的性または遠心性と名づけている。球を投げてこれを受けるのに、その球ばかりを見つめていて、これを受けるのに少しも誤りがない。そのとき自分の手はどんなふうに動かしているのか、少しも気がつかない。もし自分の手つきや足元に注意を集注して、球をみることを粗略にするならば、けっして球を受けとめることはできない。我々は箸と茶碗とを持って滞りなく茶漬けをかき込むことができるが、しかもその手の持ち方にはほとんど気がついていない。とくに左手の微妙な茶碗のあやつり方などは、問われてもこれを適切に答え得る人は少ない。

    薪割りでも、普通の人は斧を動かす方向と薪の打とうとする点とを一致させようとするために、なかなかうまく思うように当たらない。容易に熟達することができない。しかし私がこれを教えるときには、薪の打とうする一点に全注意を固定して、斧の如何を顧慮(こりょ)することなく、自然のままに打ち下ろすべしというのである。これによってその人は一両日のうちにただちに薪割りに上達する。

    少女が貴人の前にお茶を出して、手がふるえ、立ち居が頑なになり、はては後ろにある茶瓶をひっくりかえしたりするのは、心が先方にのみ向かわず、自分の挙動を心配して自分の手先や姿勢の方に、注意が求心性に向かうためである。神経質の種々の症状で、自分のなすこと、思うことが心のままにならないのは、みな注意が自分の方に向かい求心性になるからである。

  • 夢の内の有無は、有無共に無なり、迷いの内の是非は是非共に非なり

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    あなたのようなご病気は、拙著によりお判りになるべきはずですが、それは病気ではありません。自ら求めて病気のような状態になっているだけのものです。それゆえに「幽霊の正体見たり枯尾花」というふうに、その本態を見つけぬ以上は、結局迷いを離れることはできません。
    「夢の内の有無は、有無共に無なり、迷いの内の是非は是非共に非なり」というように、いくらあなたが、その病の診断を確かめようとし、これを治そうとしていかなる療法をあさっても、いかに恐怖を断ち切ろうとしても、運動や作業療法の試みをされても、それはけっして、解ったようでわかったにあらず、治ったようでも、治ったのではない、やはり迷いの内の是非であります。

    迷いとは解決すべき論拠のないことを、さも立派な論拠のあるように思い違えて際限なく煩悶するものである。たとえば「腹のへったとき、物を食うべきか食わざるべきか」と決めれば何の思慮の世話もないことになる。しかし招待された時やカタルのときなど種々の場合に常に変化するものであるから、われわれの全ての日常生活はけっしてこれをいずれか一つに定めることはできない。これを定めようとするのが迷いの元であります。このときはすなわち「食うべしも」(是)「食ってはならぬ」(非)もともに、是非ともに非であります」。

     ここで言われようとしていることは、例えば空腹になった時には、食事をするかしないかを決めるだけの単純なことではなく、さまざまな条件を考慮して決めなければならないのに、食べるか食べないかのどちらか一方に決めようとすることは、ちょうど夢の中の出来事がすべて事実でないと同様に、どちらに決めても間違いである、ということを示しています。

  • 取り越し苦労

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    普通の人は、自分の人生の目的のために、なるたけ細かく苦労することを当然のことと承知の上でやります。なのに神経質は自己中心的に、知恵の周りが良すぎるために、自分勝手な都合のよいことを考え出すのであります。すなわち自分の人生を完全にしようとする大望を持ちながら、しかもそれを安楽に取り越し苦労なしにうまくやろうというずるい考えを起こします。たとえば苦労せずに金持ちになろうとするのと同様です。強迫観念にかかっているものは、自己一点張りのために、決してこのことに自分で気がつかないのです。
    それで強迫観念の定義は、自分の欲望、目的に対して当然に起こる取り越し苦労を、取り越し苦労しないように、 思わないようにとかいうふうに、自分の心を抑えつけようとするために、当然心に起こる葛藤の苦悩に対して、これを心配しないようにとする心です。

  • 思想の矛盾

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    この火を冷たくし、死を恐ろしくないようにしようとかいうのを、「思想の矛盾」という。矛盾というのはアベコベになることである。恐れをなくしようとすればするほど、かえってますますアベコベに恐ろしくなる。早く眠ろう眠ろうとすれば、かえってますます眠れなくなる。これに反して、恐れるべきものを、当然恐れれば、恐れまいとする考えはなくなり、考えがなくなれば、すぐ恐ろしくなくなる。つまり当然あるべき事実を、そうでないようにと、無理に人為的に作為しようとするのが、僕のいわゆる「思想の矛盾」である。この「思想の矛盾」という言葉は、僕の思いついた言葉であるが、面白い言葉とは思いませんか。これを禅のほうでは悪智というのではないかと思います。

  • 森田正馬の生涯

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    森田正馬は 1874 年(明治7年)に高知県で生まれました。
    父の正文は武士と農民を兼ねた「郷士」で、学制がしかれて間もない当時、小学校の臨時教員としても働いていました。幼少時の森田は、父が教育熱心でやかましかったため勉強嫌いになり、学校に行くのを嫌がってよく泣いたそうです。中学を卒業すると、森田は親の反対を押し切って熊本の第五高等学校に入学し、さらに東京大学医学部へと進みました。
    この間、森田は後に独自の精神療法を生み出すきっかけとなる、二つの特筆すべき体験をしています。
    ひとつは、九歳のときにお寺の地獄絵を見て衝撃を受け、死んだらどうなるかを考えて恐怖にとらわれたことです。人間には、誰にもぬぐいがたい死への恐怖がある・・・、このことが、彼の心にしっかりきざみつけられる体験でした。
    もうひとつは、東京大学医学部に在学中の体験です。当時、森田は絶えず健康のことが気になり、「神経衰弱兼脚気」と診断されて療養したものの経過ははかばかしくなく、勉強にも身がはいらないまま試験を迎えることになりました。学費は従妹の久亥(ひさい)と結婚するという条件つきで父が出してくれることになっていたのに、どういうわけかそのときに限り、あてにしていた送金がいくら待っても届きません。森田は「どうにでもなれ、父へのあてつけに死んでやる」と自暴自棄な気持ちになり、身体のことは顧みず必死で勉強に打ち込みました。
    ところが、いざ試験が終わってみると結果はそれまでよりずっと良く、体調も悪化しなかったのです。この「背水の陣」「恐怖突入」の体験が、後に森田療法を生み出す礎石になったと言われています。
    1906 年、根岸病院の医長を務めるかたわら、巣鴨病院で研究に励んでいた森田は、自宅を診療所として開放し、勤務の合間に神経質症の治療に取り組むようになりました。そして 1922 年(大正 11 年)には、森田療法を本格的に体系づけた「神経質ノ本体及ビ療法」という本を著わしています。
    森田は、1930 年にはたった一人の息子を20歳の若さで失うという不幸に遭いながらも、自らの療法を確立して世に広め、専門家に認めさせようと努力を惜しみませんでした。優れた弟子を得、たくさんの門下生や患者を得ながらも、当時、森田療法はアカデミズムの世界になかなか受け入れられなかったのです。
    1938 年、森田は肺結核で世を去りました。臨終にあたって弟子たちに「凡人の死をよくみておきなさい」と言い、「心細い」と泣きながら逝ったと伝えられています。虚偽、虚飾のない生き方を、そのまま表すような最後でした。