森田療法とは(詳細)

「あるがまま」は森田療法の核となす考え方ですが、これは、不安や恐怖その他の症状をそのままに受け入れる態度と、なすべきをなす態度の二つが合成されたところに「あるがまま」が実現するといった考え方です。このような考え方から次のような誤った態度が誘導されます。
まず、不安や恐怖の感情をそのまま受け入れようと努めることです。だが受け入れようと努めれば努めるほど、努めることができません。不安や恐怖感がつのるばかりで、ますます、なすべきをなすという実行に踏み切れなくなります。これは受け入れようとすることが、すでにひとつのはからいごとだからです。

受け入れようとすることが、すでにはからいごとであり、結果はかえって不安や共感を強めてしまうとすれば、いったいどうすれば受け入れることができるのでしょうか。
それは、「なすべきことをなす」ことです。実行です。プールの例でいえば、ビクビクしながら飛び込むことです。対人恐怖の人は、ビクビクしながら人に会って用件を片付けることです。
この行動によって、自然に、いつの間にか、受け入れる態度が実現するのです。
私たちの注意は、同時に二つのことに重点をおくことはできません。人に会って用件を片付けようとすれば、どうしても注意の重点は、不安や緊張感から用件に移行せざるをえません。
そこに、おのずから受け入れる態度が生まれてきます。

「あるがまま」の実現は、なによりもまず、「なすべきをなす」ことにあります。この行動によって、はじめて不安や恐怖をそのまま受け入れるという態度が自然に生まれるのです。
「あるがまま」は、なすべきをなす実践が主導し、あるがままに受け入れる態度が、自然に随伴して生じるといってよいでしょう。

森田博士は「あるがまま」と「生の欲望と死の恐怖」について次のように述べています。

  • 「あるがまま」について

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    さて、ここで皆さんに、充分注意してもらいたいことは、自分自身を、そのあるがままに認めることです。自分は五尺何寸であるとか、体重は幾貫目とか、貧乏に生まれたものとか、人前では、ぎこちなくなるもの、自分は小人であって、飾り、言い訳し、とりつくろいたくなるものとか、何かにつけて、利害得失に迷い惑うものなど、素直にそのまま、正直に認めておくことです。

    なお、自分は五尺一寸と正直に自認しようとすれば、それではなんだか心細い、少なくとも五尺三寸くらいには思いたい。人前で硬くなる、気が小さい、小人だ、試合のときは足の震えるものなど、そのまま、あるがままに考えることは、なんだか浮かぶ瀬のないような気がして苦しい、もっと気を大きく、朗らかにすれば、一寸のものも三寸に伸び上がり、小人でもいくらか、君子らしくなるかも知れない、というはかない考えが、頭に浮かんでくる。そこでいろいろの小細工を工夫して、臭いものに蓋をし、われとわが心を欺いて「自欺」ということにもなる。
    それが少し調子に乗って、増長慢心が起こると「ナポレオン何人ぞ、彼も人なり、我も人なり」とかいうような、とてつもないことを考えるようになる。しかし、そのから威張りの考え方は、実は強迫観念と同様の心理であって、そのためにかえってますます小胆、無能になり、浮かぶ瀬はなくなるのである。 「自ら欺く」ということがまったくなくなり、明朗な心になることを、孔子の教えの「大学」では、「明徳を明らかにする」といいますが、五尺一寸一分というふうに、自分の心のことをも、深く正確に認識していくことを自覚といいます。

  • 生の欲望と死の恐怖

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    われわれの最も根本的な恐怖は、死の恐怖であって、それは表から見れば生きたいという欲望です。これがいわゆる命あっての物種(ものだね)であって、さらにそのうえに、私たちはよりよく生きたい、人に軽蔑されたくない、偉い人になりたい、とかいう向上欲に発展して、非常に複雑極まりないわれわれの欲望になるのである。それで私たちは、どうしてこのような欲望が起こるか、なにゆえに病気が恐ろしいか、不眠が苦しいとか、種々の場合と条件とを、自己反省によって追求していくと、その根本的な意味が分かってくる。これを自覚といって、修養を積むほど、その自覚が深く正しくなってくるのである。

    まず私自身の自覚について、一例をあげてみれば、私にとって死ということは、いかなる場合、いかなる条件にも、常に必ず絶対的に恐ろしいものである。私はたとえ 125 歳まで生きたとしても、そのときに死が恐ろしくなくなることは、けっしてないということを予言することができる。私は少年時代から、40 歳ころまでは、死を恐れないように思う工夫を随分やってきたけれども、「死は恐れざるを得ず」ということを明らかに知って後は、そのような無駄な骨折りをやめてしまったのであります。

    また私の自覚によれば、私は死の恐怖のほかに、生の欲望というものが、はっきり表れております。私は今年 3 月に、死ぬか生きるかの大病をやりましたが、非常に苦しくて、全く身動きもできなかった。数日の後、まだ死の危険の去らないときから、看護婦に源平盛衰記を読ませた。少し病が楽になるにしたがって、その本の中からちょっと疑問が起こっては、野島君に保元の乱の原因を調べてもらったり、理屈のうえでは、まったくつまらぬことまでも、調べてみないと気がすまないというふうであります。

    この欲張るということは、何かにつけて、あれもこれもと、絶えず欲張るがゆえに、つまり心がいつもハラハラしているということになる。慢性の病気で衰弱すれば、食欲もなくなるとともに、欲望もしだいに薄くなってしまうが、健康な間は、ますますこのハラハラが盛んなはずである。今度の私の病気のときも、少し苦痛が楽になると、論語のような一句一句のものを、静かに味読することができる。この時期には、まだちょっとしたものでも、続いたものを読むことはできない。こんな論語や何かの文句を記憶して、これをあの世へ持っていこうというのは少しも理に合わぬことである。すなわち、神経質の患者で理論にとらわれてしまう時には、勉強も欲張りもすべて放棄してしまうことがある。すなわち私の純な心、自然な心を没却して、思想の矛盾に陥るのであります。

    上に述べたことが、いわゆる生の欲望であるが、私がこれをさらに私の心の奥へ奥へと反省を進めていくと、私の心はいわゆる「欲の袋に底がない」というように、私の生の欲望には際限がないということを知るのであります。
    赤面恐怖でいえば、人に笑われるのが嫌、負けたくない、偉くなりたい、とか言うのは、我々の自然な心である。それは理論以上のもので、自分でこれをどうすることもできない。私自身についていえば、私はこれを否定することも抑えることもできない。私はこれをひっくるめて、「欲望はこれを諦めることはできぬ」と申しておきます。これで、私はこのことと「死は恐れざるを得ず」との二つの公式が、私の自覚から得た動かすべからざる事実であります。

    死ぬか生きるかの大病のときでも、理屈では今そんなことをやっても意味がないと普通は考えがちですが、やむにやまれない生の欲望が働き、やらずにはいられないという向上欲がなせるわざが表れています。神経質性格はその生の欲望が非常に強いのです。

    また森田博士は次のようにも言っています。
    「人が死にたくないのは、生きたいがためである。病気が悩ましいのは、思うように仕事ができないからである。神経質が不眠を恐れるのは、不眠が苦しいのではない。そのために仕事の能率が上がらないのを悩ましく思うがためである。赤面恐怖が苦しいのは、恥ずかしいのが困るのではない。それがために自分の優越感を満足させることが出来ないからである。みな生きることの欲望の反面である。
    神経質は机上論の屁理屈をおしすすめているうちに、病の悩みや死の恐怖という一面のみにとらわれ、動きが取れなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の発揮ということに気が付いたのを心機一転といい、今度は生きるために、火花を散らして働くようになったのを ”悟り“というのである。

  • 人間・森田正馬

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    森田正馬はエピソードの多い人です。たくさんの門下生や患者が、その言動を今日に伝えています。因襲に縛られず、自分の考えをそのまま実践した彼の行動は、「かくあるべし」の規範にこり固まった人たちの目に新鮮な印象を与えたのでしょう。
    森田の人となりで特に際立っている点のひとつが、その旺盛な好奇心です。中学生のときには、迷信や骨相、人相、易などに関心を持ち、その方面の本を読みあさっています。森田療法の完成に至るまでにも、夢について調べたり、土佐に伝わる「犬神憑き」(いぬがみつき)の実踏調査をしたり、催眠術を駆使したりしています。とにかく何にでも興味を持ち、何にでも手を出す人でした。もし彼が、迷信など「くだらない」と一言のもとに片付けてしまう人であれば、『迷信と妄想』という名著は生まれなかったかも知れません。

    また、人や物の性を尽くすという考え方が、極端に合理的な行動になって現れています。自宅に入院している患者と一緒に、市場に野菜くずや廃材を拾いに行き、鶏の餌や焚き付けにしていました。とても大学教授とは思えない行動です。女中の下駄の鼻緒をすげ替えてやって、「女中がかわいいからではない、下駄がもったいないのだ」と言ったりもします。
    有名なのは、玄関の壁に「もらって困るもの…菓子、果物とくにメロン、困らないもの…卵、金…」という貼り紙をしていたというエピソードです。いかに合理性から出たものであったにしろ、「変人」と思われても仕方のない行動かも知れません。しかし、決して吝嗇(りんしょく/けち)というわけではなく、年末には百人という自分の患者に贈り物をするため、大量のミカンを買い出しに行ったりもしています。目上の者にも友人にも患者にも、分けへだてなくなく愛情を注いだ人でした。

    もうひとつ見逃すことのできないのが、森田の親しみやすさです。患者に対する彼の助言は、あくまで具体的な事実に即したもので、時に厳しく、しかし心から相手のためを思ってのものでした。退院の際、彼と別れるのがつらくて涙を流す患者も多かったと伝えられていますが、このように語りつがれること自体、多くの人から慕われていた証拠と言えるでしょう。
    森田には、中学時代から死の直前に至るまで日記を書き続けて、人生を記録する勤勉さもありました。エピソードのなかの森田の言動はそのまま森田療法を体現しており、学ぶべき点がたくさんあります。自分の言葉をそのままに生きるというのは、やさしそうでいて実はもっとも難しいことかも知れません。森田正馬はそれを見事に実行した希有な人物です。