体験記一覧[不安神経症]
不安神経症・トイレ不安~とらわれからの回復(Y・Aさん・50代・会社員)
症状について
私の症状についてですが『全般性不安障害・不安神経症』で、一番苦しんだのは『トイレ不安』です。トイレのない場所や行きにくい環境に置かれると「腹痛が起きるのではないか」と強く不安を感じ、実際に身体的症状も出ていました。そのことが予期不安につながり「また次も同じことが起こるのではないか」と恐怖にかわっていき、どんどん生活範囲が狭まっていきました。
子供のころから胃腸が弱い体質でした。社会人になったある日、電車で通勤途中に腹痛を起こし、かなりつらい我慢をしてしまいました。それが引き金になり、翌日から乗車直前に腹痛を起こすようになりました。そして必ずトイレに入ってから乗車する毎日になりました。
その症状はどんどんエスカレートしました。不安はどんどん広がって、電車だけではなく、会議など時間を束縛される前、映画館・美容室や歯医者も怖くなりました。そして一番苦しかったのは、会社関係の会食でした。「食べることで腹痛を起こす」と思い込んでいた私は、どんどん極端な考え方をするようになっていました。
だましだまし向き合っていた症状が強くなり、私は意識して食べないようになりました。「食べなければお腹に何も入っていないのだから、絶対に腹痛を起こすことはない」と、不安を感じるたびに心に言い聞かせていました。空腹でお腹が鳴って恥をかくよりも、食べなければ絶対に腹痛が起きないと思っている方がずっと気が楽でした。食事の誘いも不自然に理由をつけて断りました。まったく食べない訳にはいかないので、食事中は終わった後のお腹の調子ばかりを気にして、一喜一憂していました。
でも不安がなくなるどころか、ますます苦しいものに変わりました。「食べない=絶対に腹痛を起こさない」という図式を作ってしまった私は「食べる=絶対に腹痛を起こす」と極端に思うようになり、食事のたびに、さらに強い不安を覚えるようになりました。
外食が、そして食事自体が怖くなりました。家族旅行に行っても、宿につくまでは水分すらも控え、不安を消すことだけしか考えていませんでした。自分のことしか考えることができず、ゆっくり観光をすることを嫌がり、早く宿に行きたいとせかしてみんなを振り回していました。
そして生理現象に関係なく、何か行動をする前には必ずトイレに行くようになりました。トイレから離れなくてはいけない時には、行ったばかりでも必ずトイレに行きました。私の場合は「一応トイレに」は表向きで、心の中では強い予期不安をなんとかしたくてトイレに行っていました。
また、どこに行くにも自転車を使い徒歩を避けていました。移動中にトイレに行きたくなったら、すぐにトイレを探すことができないと不安だったからです。どうしても徒歩で移動しなくてはいけない時は、事前にトイレのある場所とそこまでの時間を調べて出かけていましたので、駅トイレの位置や公園やコンビニなどの位置をよく知っていました。
しかし不安は強迫観念に発展してしまいました。予期不安の不快感を取り除こうとトイレに入ってしまうと、トイレから出ても、「もしかしたらもう一度行った方が気持ち的にすっきりして安心するのではないのか」とよぎり、何度も何度も出たり入ったりしてしまい、なかなか次の行動に移せなくなっていました。毎回時間切れで、やっとあきらめてトイレから離れるという感じでした。
こうして振り返ると、とても疲れる生活をしていたし、はたから見ると「精神的におかしい」と思われても仕方のない行動をとっていたとも思います。表では平然を取り繕っていましたが、心の中はとても病んでいた時期でした。
生活の発見会との出会い
病院にも行きましたが、身体的には特に問題が見つからず、いつも一過性のもので片付けられていました。そのうちに「過敏性腸症候群」という病気があることをテレビで知り、私もこの病気だと思いました。そして過敏性腸症候群の薬を飲み始めましたが、そのうちに飲んでも効かなくなりました。
そんな時、図書館で北西先生の『森田療法のすべてがわかる本』に出会いました。そこには私が苦しんでいた(苦しみすら気づかなかった)症状が書かれていました。本を読み、私は不安神経症でその症状の一つが過敏性腸症候群だったと知りました。薬は対症療法で根本的な治療ではなかったのだと、やっとたどり着きました。この苦しさからすぐに解放されると信じて、自宅から一番近い集談会へ参加をするようになり、生活の発見会会員になりました。
ただ、集談会は1年たらずで離れてしまいました。症状が強く自分だけしか見えず、集談会で何をどのように学んでいけばいいのかもわからなかったからです。その後は発見誌を読みながら自分なりの解釈で森田療法を生かすような生活をしていました。なにか不安を感じた時「森田療法では、このような時にどのように考えたらいいのだろうかと」思いながら行動をしたり、不安と向き合ったりしていました。やはり森田療法は私のよりどころであることに変わりありませんでした。
そして少しずつ症状へのとらわれが和らいできた頃「再度集談会に参加してみては」と言っていただき、集談会に戻る形で参加をして、6年が過ぎました。
症状の回復
ここ数年は劇的に症状が軽くなり、いろいろなことが順調に運ぶことが多くなりました。症状が和らぐと「自己否定感」でいっぱいだった生活が、自然と「自己肯定感」へ流れるようになり、些細なことを気にすることもなくなり前向きに生活をするようになりました。
でも症状がなくなったわけではありません。相変わらず予期不安が襲ってきて、ざわざわする心に辻褄を合わせて行動したりしています。ただ、以前よりもずっと楽になったのは、辻褄を合わせながらでも、自分の苦しい感情を冷静にしっかり受け止められるようになったからだと思います。
先輩会員の方から、「症状は薄紙がはがれるように良くなるから大丈夫」と励まされたことがありましたが、当時の私は半信半疑でした。でも、気が付くと症状がよくなっている自分を実感しています。急によくなったのではなく、私が気づかないくらいにゆっくりとよくなっていたのだと思います。
森田理論と自然な感情
最近になり『実践行動重視』をしていた私がたどり着いたところがあります。それは岩田真理さんの「感情は無視すべきものでも、抑えつけるべくものでもなく、ただそこにあるもの」「自然な感情をそのまま持ちこたえることができていれば、周囲に適応して臨機応変な行動をとれる」というものでした。
私は苦しい感情を「ただそこにあるもの」として考えたことがありませんでした。不安が起きると、その感情を排除しようとすることでいっぱいになりました。過ぎ去った不安の恐怖が収まっても、またいつ来るかわからない不安におびえて生活をしていて、疲れていました。でも自然な感情をそのまま持ちこたえることで自然な行動をとれると知って、少し感情の方向性が変わってきました。
トイレ不安の私は行動前に何度もトイレ確認をしてしまいます。今は、強迫観念的な感情が湧いてきても感じるままにしておき、切り離すことが早くなり、とても楽になってきました。
集談会と自己肯定感
私はずっと自己否定感の中で生活をしていました。完璧主義の私は頑張っても頑張っても理想としている自分になれないことを受け入れられず、いつも自分を責めていました。
集談会に戻った時、今度こそ森田理論をしっかり学び体得することでこの苦しさを解放しようと思いました。やるとなったらせっかちで欲張りな神経症ですから、集談会の他にも森田理論勉強会に参加し、さらには同じ日にほかの集談会にも参加をすることにしました。
ほかの集談会への参加は森田療法を学ぶという前提ではありましたが、どちらかというと最初は電車に乗るための『恐怖突入』の実践でした。最寄り駅までの電車は今でも急行には乗れませんが、毎月通うことで不安がどんどん小さくなっていく実感がありました。そして分かったことは、逃げれば逃げるほど恐怖が大きくなっていき、行動すればするほど自信がついて恐怖が小さくなってくることでした。ひとつ森田理論を体得できたかもしれません。
その後集談会の世話人になり、怖くてできなかった前に出る仕事は強制されることもなく、できることをゆっくり温かく見守ってもらいました。そのうちに、自分にはできないこともあり、できないことは助けてもらい、そんな自分でいいと受け止めることで自己否定感が薄らいできました。
集談会では、できることを一生懸命するだけで「こんな自分でも役に立っている」という安心な居場所に変わっていきました。周りがよく見えるようになった分、できることをどんどん増やしていけるようになりました。いろいろな経験をしながら、理論だけでは学ぶことができないことを教えてもらえるのが集談会だと気づきました。
今は神経症が治ったとか、治らないとかではなく、苦しみも、楽しみも、悲しみもすべての感情をただ自分の感じとして信じて行動していけばいいと確信しながら生活をしています。これが私のとらわれからの回復だと思います。
森田療法と行動で埒(らち)を開ける(S・Hさん・30代・会社員)
学生時代
私は幼い頃から何かが恐ろしく、得体のしれない漠然とした恐怖にいつも怯えていました。いつも恐怖が手を変え品を変え、攻めてきました。小学校に入ると思いのほか勉強やスポーツはできて、恐怖はありながらも概ね楽しく過ごしていました。
しかし、勉強やスポーツで良い成績とり模範的な行動をしていれば教師や同級生に好かれると味をしめた私は、「模範的なジブン」「周りより勝っているジブン」であれば他の人より優越できると「かくあるべし」を知らないうちに内在化していきました。また、中学受験に向けての受験勉強に特化した教育の中「よい成績を取り偏差値の高い受験校に合格することが正しいことで、そうでなくては間違っている」と、かくあるべしと己の高慢を大きく膨らませていきました。
そして第一志望の大学まで一貫校の中学の受験に合格しましたが、勉強や規則よりも、それに逆らうことが周囲から良い評価を得られるという英雄主義のような環境に一気に変わりました。かくあるべしと高慢さで自分を支えていた私は、それを捨てられずムキになり、後で分かったのですが軽度の発達障害もあったため、周囲から様々な嘲笑や嫌がらせを受けて、いさかいを起こしてしまいました。かくありたい私と実際の私とのギャップからジレンマに陥り、やりどころのない感情を持ち続け、怯えや怒りや憎しみでいつも警戒し、高校を出る頃にはひどく衰弱していました。
大学に進学する頃には、常にビクビクして神経を張り詰めていました。もはや教室にいることさえも辛く、講義に出るのも恐ろしくなり、学内のカウンセリングルームと精神科に通い始めた私は、「自分は精神病だから」と悪い意味で居直り、休学を繰り返すようになりました。かといって療養や治療に専念するわけでもなく、ゲームやインターネットに浸っていました。留年と休学と復学を繰り返すという状況が続き、結局は大学を中退することになりました。
ぶり返した死の恐怖
休学を繰り返しながらも父の仕事を手伝っていた私は、そのまま父の下で働き始めました。大学の頃から父に資格を取ることを勧められていたので、こんな私でも働けるのかと喜々として働きました。
そんな中、3・11の東北の震災が起こり、後の悲観的・情緒的な報道で、自分もいずれ必ず死ぬという死の恐怖がぶり返しました。悩む中、無宗派のお坊さんとの出会いがあり、戒律を守ることや瞑想を教わり始めました。また東洋医学にも興味を持ち、鍼治療やツボ、薬膳の勉強などをして自分で試行錯誤していました。結果として、人並みに社会の中で最低限暮らせるようにはなりましたが、恐怖は取り除けませんでした。
また、明治文学や哲学の本を読みあさり、感傷的・刹那的な人生観の鋳型いがたに自分をはめ込むことで、強迫観念の症状を徐々に起こしてしまいました。瞑想をして気持ちを落ち着けようとしても集中できず、頭の中に流れてくる言葉を打ち消すことに一日の大部分を使う羽目になってしまいました。
しかし、誰かに相談したら自分の脆弱性ぜいじゃくせいや依存性、症状を膨らませてしまうような気がして誰にも言えませんでした。疲弊して、生きるのも死ぬのも辛いという孤立の中にいました。
ただ、それでも仕事だけは続けなければ、一生症状や不安から逃げ続けてしまうことになると思い、仕事だけは通い続けました。
集談会との出会い
にっちもさっちもいかなくなった私は、大学時代に母に勧められていた森田療法を思い出し、関連図書をいくつか読んだ上で、一か八かの思いで集談会に出席しました。
自己紹介から淡々と会が進行していく様子を見て、「本当に辛い症状を克服されたのだろうか」「自分だけが特別に悪いのでは」と半信半疑のまま、何となく集談会に出席したりサボったりを繰り返していました。今にして思えば、集談会にきちんと毎回出席して、何かしら役割を引き受けた方が早く治ったかもしれませんが、当時は症状を相手にすることに必死で、周りを見る余裕がありませんでした。しかしメールで誘っていただき、徐々に出席する頻度は増えていきました。
また、症状に苦しんでいる時の仕事のやり方も教えていただきました。一番大事な仕事や期限が迫っている仕事を、面倒くさくても辛くても怖くても最初にやって、後は少し横になって休む、という方法です。幸い家族経営のため状況に恵まれていた私は、重要な仕事を終えると横になり、家に帰る途中に休んだりしながらも仕事を続けました。また強迫観念が止めどなく流れていても、会社の資金繰りを必死で考えたり現実的な思考を行うようにして、とにかく生活の流れを進ませました。
基準型学習会へ
それからしばらくして、先輩会員から基準型学習会に通うことを勧めていただきました。最初は会場まで行くことさえも予期不安で恐ろしかったのですが、そこまで勧めてくださるということには何かあるのだろうなと思い、思い切って参加しました。
学習会の日記指導では、私が悲嘆したりみっともない失敗をしても「そこからどのようにできるか」という建設的な助言や、悩みに寄り添って共感のコメントをもらい、心強い支えになりました。そして日記に「あれもこれも書こう」と日中に思っても、いざ書く時になれば「どうでもよいことだったな」と感じ、世の中の大抵のことは流れていくことであり、大した問題ではないことにも気づきました。
また受講者の発言を聞いていくうちに、気づきというものが深まっていきました。特に今でも思い出すのが、ある方の「私の症状は疾病利得なのでは」という発言でした。そこで私は、誰にでもある恐怖や不安を症状・病気ということにすることで、現実の日常生活や社会生活から逃避を重ねていることに気づきました。目から鱗が落ちるようでした。
それからは症状に逃げないように、仕事や日常生活を丁寧にするようになりました。不安は逃げるとより強くなって攻めてくるので、不安は棚上げして目の前のことを一つ一つ、頭と体は怯えながらも、今はこれだけとこなすようにしました。
それから少し過ぎて、実家の犬がかなり弱っていることを知り会いに行くと、目も見えないようで、周囲を嗅ぎまわりながらヨタヨタと歩き、私だと分かると腹を見せるのですが、横になるのも一苦労で息をするのがやっとのようでした。それを見た私は、誰にも見つからないように声を潜めて泣きました。よく見ると父の喉もしわが垂れ始めていますし、「こんなになるまで自分の症状にかまけて周囲を気にもかけず、自分の気分本位に逃げ続けて」と自分のふがいなさに涙が止まりませんでした。
日常を丁寧に
それからは、症状を相手にし続ける生活から何とか抜け出そうと、踏ん切りをつけようと決めました。
ある日、トイレの汚れを見て、こんなに汚かったのかと恥ずかしく思い磨きました。気付くと流し台も汚いのでキレイにすると、気持ちが流れていくのを感じました。それからは爪を切ったり顔を洗ったり、ご飯を食べたらすぐお皿をきちんと片づけたり、掃除や片付けなど、人として当たり前のことを、今・ここ・自分に集中し、できる事をできる時にやるという生活をひたすら繰り返しました。
不安や症状をそのままにしておくのは勇気がいることでしたが、森田療法で今まで多くの人が治ってきたのだからいっそ騙されてみるかと、とりあえず目の前のことを一つ一つビクビクハラハラしながらこなしていきました。不安は手招きをして、恐怖を恐怖するというループに何とか持ち込もうとしてきます。一進一退で駄目な日もあり、自分の弱さを惨めに感じることも多かったです。
神経症の元となった誤った認識
私の誤った認識は、今ある生活や仕事をおろそかにして、不安や症状を取ることに執着することで、かえって不安を大きくしていたことです。症状にとらわれることで、「不安なジブン」「症状のあるジブン」というのは肥大化していくように思えます。それによって実際の社会生活から逸脱して、観念の世界に入り込み、ますます症状を悪化させました。
また学生時代からちっぽけで弱い自分を見ないようにしていたため、自己の成長や他者への配慮よりも、自分を守るために頭の中でやりくりすることに必死で、周囲への批判や自己保身を自分の脳内で一人チャットのように繰り返していました。
今の自分の生活は、ひげを剃る・ご飯を食べる・ゴミを捨てる・仕事をする・風呂に入る・寝る、などやらなければならないことを一つ一つこなすことで、よどんでいた生活が流れ始めました。
不安は常につきまといますが、とりあえず目の前のことをやらなければ埒(らち)が開きませんし、生活も維持できません。頭や体が怯えても、不安でも怖くても、仕方なくでも、悩みや不安がありながらグズグズとやるべき仕事や生活世界に流されていく毎日です。
それから暗中模索の中で悩んだり右往左往しながら過ごしましたが、2年ほど経った現在では、仕事や炊事・洗濯・掃除などの毎日の型は整えながら、趣味の歌や筋トレを続けて、服や髪型や肌のケアなどファッションにも気を遣ながら、人とのつながりを大切にして色々と楽しむように過ごしています。