神経症になり易い性格特徴(詳細)

  • 幼弱性について

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    神経症になり易い人は次のような幼弱性も持っており、この働きが強いと神経症を発症する要因になります。

    1) 観念的
    人間は健康でないとより良い生活は送れない。つまり、一つでも病気(持病)があれば、もう自分の人生は駄目だと考える、あるいは受験に失敗したら、また人前で赤面するから、自分という人間はどうしようもない駄目人間である、と考えるなど、物事に対する考え方が「かくあるべし」「二者択一」な傾向があります。

    2) 依存的
    依存的とは、ひとことで言えば、自主性あるいは自律性に欠ける態度を言います。
    会社で何か失敗したりすると、それは自分のせいではなく、人のせいだと言ったり、人間関係がうまくいかないと、会社をやめたいと家族に愚痴を言ったりするなど、何か困難な状況に直面すると、すぐに、他人や自分以外のものに依存する態度が見られます。

    3) 自己中心的
    自分勝手な態度であり、いつも自分のことばかり、あるいは自分中心に物事を考えています。別な言いかたをすれば、主観的な考えかたをもち、客観的な立場、考えかたができないということも言えます。従って、常に「人は自分のことをどう思っているだろう」と人の思惑ばかりを気にしているところがあります。

    このような性格をもった神経質な人が、生活上のことで思うようにならないこと、例えば困難なことや強い挫折感があったりすること、あるいはどうしても手に入れたいものが得られないということなど様々な問題に対処できなかったりすると、精神のバランスを崩し、強い適応不安に襲われ、びっくりしてあわててその不安を取り除こうとすることにより、神経症の症状にまで発展させてしまうのです。

  • 症状の発生と固着

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    ある感覚に注意が集中すると、その感覚は鋭敏となり、その感覚がますます注意を固着させます。 この感覚と注意が交互に作用しあって悪循環となり、最初の感覚は強く大きくなっていきますが、この過程を「精神交互作用」といいます。
    「精神交互作用」によって自然な不安が大きな違和感になってくると、それを取り除こうと必死に努力することが目的となり、部分的な弱点を絶対視するようになります。そして、この不安があるから、自分の生活はうまくいかないのだと、全ての責任がその違和感にあるように考え、生活の他の側面には目が向かなくなるのです。そのようにして、自然な不安は「症状」にまで発展し、固着してしまいます。

    森田博士は神経質の性格について次のように述べています。

  • 神経質の長所と短所

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    神経質の素質による長所は、種々挙げることができるが、これにとらわれて病的となるときは、これがことごとく短所となって表れるのである。たとえば金や知識は最も有用なものであるが、ひとたびこれを悪用すれば、世にこれほど大きな害毒を流すものはない。
    神経質の自己内省が強いということは、「人を知るは智なり、自ら知るは明なり」というように、これによってはじめて良知となることができる。にもかかわらず神経質は、たとえば頭痛とか不眠とか煩悶とか、その自己観察にとらわれたときには、世の人はみな爽快で安楽であるけれど、ただわれ独り苦痛に堪えないというふうに全く自己中心的になりきってしまい、親も兄弟も、自分を理解してくれるものがないといって、人を恨み、世をかこち、さらに親の遺伝までも腹立たしくなり、周囲に八つ当たりするようになる。

    また神経質は理性的であるからしつこいのである。「雪の日や、あれも人の子、樽拾い」といえば、普通の人ならば単純にわが子ならばさせまいと同情の心大いに湧き出るのであるが、神経質はそう簡単にはいかない。あれは小僧で、下等社会の子供であるから寒いことも知らない。
    自分は神経過敏であるから、とても身体が堪えられないというふうに考える。神経質は、実はけっしてこのように過敏であるとそのまま決めてしまうことはできない。ただ独断で、自己中心的にそう決めているだけである。その過敏の程度は、これを実験してみればただちにわかることである。

    人に対する正しい同情ということは、自己内省を欠いてけっしてできるものではない。この適切な精神作用も、悪用してこそ、はじめて有害になるのである。神経質のただわれ独り苦しいという心持ちは、ひとたびその心境を展開して、自己の素質の長所に覚醒したときに、これ がそのまま唯我独尊となるのである。この心は、すなわち人を恨み、自分をかこつ卑屈の心で はない。自己の全力を発揮し、人をあわれみ、周囲を済度する力である。

  • 神経質の症状は欲望の過大から

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    神経質症状について恐怖に対する態度だけでは、一側面を見たのみで、われわれの人生の全般を知ることはできない。たとえば、小児などには、たんなる本能的な恐怖が僅かにあるだけで、理知によって未来を予測し、自己の運命を切り開いていくことに対する恐怖などというものは少しもない。赤子の心を大悟の境涯に例えることがあるけれども、それはたんにあるがままの心ということが似ているだけである。修養によって獲たものとは雲泥の相違である。

    ある40余歳の精神を患っているおとなしい女の患者があった。大正12年の震災で、大きな音がしてその病室の壁が倒れた。看護婦が驚いてその病室の戸を開けてみれば、患者は病室の隅に正座していて「大きな地震ですね」と挨拶して、自若としてすましていた。私はこれを戯れに「仮性大悟徹底」と名づけている。野狐禅(なまかじりのうぬぼれ)に類している。
    しかしこの患者の場合には、脈拍に著しい変化はないが、野狐禅では脈が乱打しているという相違があって、ただつくった見せかけの自若ぶりというだけのことである。

    これらの状態では、たんに消極的な安心というだけで、少しも積極的な働きというものがない。ゆえに強迫観念を治すにも、ただこれだけではいけない。箱に入れた人形のようではいけない。神経質は普通の人に比べて欲望が大きいものである。強迫観念やその他神経質の種々の症状は、この欲望のために起こったものである。ただこの症状を起こしたものは、もっぱらその恐怖にとらわれるために、そのことだけにかかずらい、人生に対する欲望を捨ててしまったように見えるだけのものである。

    たとえば頭が重い、精神がボンヤリすると訴えるのは、自分がこのために思うように、あるいは人並み以上に勉強し、または活動することができないという不満からであって、患者はまず仕事の能率上、はなはだ損害になる不快の容態を完全に治しておいて、その後に大いに奮闘しようとする欲望に駆られている。強迫観念でも皆これと同様であって、まず全ての心のうちに起こる邪魔の考え、不快の気分を一掃して、充分に人生の幸福を甘受しようと欲望するからである。

  • 恐怖と欲望の調和

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    我々の人生の活動の大小、世に貢献するものと酔生夢死との分かれ目は、実に欲望と恐怖との相対的関係の如何によって定まるものである。
    いま我々の恐怖と欲望との調和とは、およそどんなことであろうかということを戦争についてたとえてみよう。今我々はひとたび国家存亡のときに出合わせたときには、社会的な義務、国家的概念に励まされて、嫌々ながらも出征する。もしこれが徴兵を回避する場合ならば、それは恐怖にのみとらわれたものであり、もし喜んで志願し勇んで行くものならば、それは名誉心に駆られる冒険的なもので、人生の欲望の方面にのみとらわれた場合である。

    つぎに今、敵と相対陣してその矢面に立っているとする。小銃弾はシュッシュッと頭をかすめ、砲弾は自分の前方、後方で破裂して土石を散らす。恐ろしい、身の毛もよだつ、心臓は高鳴りする。木なり、岩なり、地の凹んだところなりを選んでできるだけ身を隠す。しかも今は他に方法がない。一生懸命に敵に向かって射撃して敵の鋭気を圧迫するよりほかに途がない。
    ねらいを定める。撃つ。手ごたえがある。続けざまに発射する。自分の銃の音が澄み、精神は敵の方に集中して一心不乱になる。今や敵弾の飛来も、自分の心臓の高鳴りも少しも感じない。
    ますます進んで敵に接近する。一かばちか思いきってやっつけろという気が立つ。鬨(とき)の声を挙げる。突貫する。敵もなかなか頑強に抵抗する。こちらも今は進退きわまる。命からがら暴れ回るより他に仕方がない。このときには自分の疲労、苦痛はもとより生死も何も念頭にはない。
    ここにいわゆる心頭滅却がある。生の欲望と死の恐怖とが凝って一団となり、ただ火花の散るが如き奮闘の現象が実現しているのみである。思慮も判断も思想の矛盾もない。ただ一念の 生の努力があるのみである。ここにいわゆる「最後の5分間」で、はじめて敵は退却し、死中に生を獲ることになる。

    以上述べたようなありさまが、我々の心理の状態における欲望と恐怖との調和である。この調和の中にいわゆる大勇または真勇というものが現れる。これが思想の矛盾にとらわれるときは、恐れるために、自分の死地を切り開くことを忘れて、逃げ場所と隠れるところばかり考え、敵弾の音と自分の胴震いのみが身にこたえて、前後不覚となり、自ら立ち惑う間に、かえって敵弾に身を落とすのである。また一方には、いたずらに自ら恐れないようにとし、卑怯と人に笑われないようにとあせるときには、そのすることがすべて軽はずみで虚偽の勇気となり、蛮勇となって無謀に命を捨てるようになる。ただ百人に一人が偶然に成功して、勲章を授けられるようなことがある。
    真勇は一見、素人には勇気とは見えない。真勇は自然であり、思想の矛盾に惑わされず、毀誉褒貶(きよほうへん/ほめることとけなすこと)にかかわらず、自分自身の努力そのままになりきったものである。

  • 神経質の症状は生理的

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    神経質はまず子細な容態までも一途にこれを治そうとすることをやめて、静かに自分の病と思われるものの性質を考えてみるがよい。神経質者は、一方にはあるいは近視眼であったり、あるいは体格が悪かったりしていても、そればかりを悲観したり自暴自棄になったりすることはない。また一方には、身体がはなはだ強健であったりしても、成績が優秀であったりしても、これを喜んだり、自惚れたりすることもない。それはもって生まれた当然のこととしているからである。しかも頭痛持ちとか、不眠とか、記憶が悪くなったとか、頭の働きが悪いとか、ものを気にするとか、卑屈であるとか、さまざまなことを苦にし、悲観し、あわててこれを治そうとあせる。近視を治そうとして、眼をこすったり、揉んだりするようなものである。

    いや神経質の症状は、実は近視のような病的ではなくて、生理的なものである。
    面白いことには、学校の成績が優秀であって、しかも読書して注意が散乱し、理解が悪いということを苦にするものがある。優秀のことは何とも思わず、読書に対する気持ちのことのみを苦にするのである。物を買ってその品物の有効なことを思わないで、金を失ったことを悲観するのと同様である。数年前も不眠に悩む患者が、相当の活動もでき、身体は少しも衰弱するということはないのに、このことには少しも満足の意を表さないで、その不眠ということのみを苦にする。肺病恐怖の患者で、体は強壮になり、栄養は良くなっても、本人は身体のことなどはどうでもよい。ただ恐怖煩悶の苦痛に堪えられない。むしろ実際に肺病になった方がよいとかいって駄々をこねるものがある。

    ある赤面恐怖の官史は、栄達もよく、多くの下僚の上に立つものであって、しかも自分の位置は当然のこととして満足せず、いたずらに自分の赤面恐怖の苦痛に悩むのである。ある若い同じ赤面恐怖の患者は、この患者と会話して、のちに「知事になるような人でも、赤面恐怖になるのか」といって、大いに自分の意を強くしたということである。