体験記一覧[強迫症(確認恐怖)]

「確認恐怖(確認癖)でも夢をはたせた!」(N・Hさん・女性・会社員)

 私が強迫神経症になったのは、二番目の娘を出産後、頼りにしていた義姉が、くも膜下出血で倒れ、育児ノイローゼになったのがきっかけでした。そのころ読んでいた本が、一つひとつ引っかかったのを覚えています。

何回も、何回もしつこく確認

 私の主な症状は、人に何回も同じことを確認する、まわりを巻き込むタイプです。最初、小児科の先生に聞いたときに不安になり、二度三度と聞きました。次第に何回も聞かないと安心できなくなりました。また、不安と早朝覚睡で、毎日ひどい肩こりでした。

 確認しないと夜は安心して寝られません。安心して寝るために確認していたようなものです。

 確認の範囲が広がっていき、スーパーでも、店員に、商品の賞味期限や産地や保存方法など、わかっていても何回も聞きました。実家に行くと遠慮がなくなり、両親に、子育てのことなど何回も聞いていました。電話で確認したときは、父に「何回も聞くんじゃないっ!」と怒鳴られたこともあります。

なぜとらわれたか

 なぜ強迫神経症になったかというと、まず神経質性格だったこと、そして完全主義だったことです。いい加減にできない性格で、子どもを完璧に育てようと思っていました。

 それが強迫神経症になった落とし穴でした。さらに、私の場合、人一倍依存心が強かったこと、そして母がなんでも聞く人だったので、人に聞くことに対してあまり抵抗がありませんでした。父には甘やかされ、母は過干渉で、自立心が育ちませんでした。

発見会に入会して何が変わったか

 発見会に入会して23年たちますが、いまだに人に何回も確認するという症状は治っていません。では「入会したころと、何が変わったか」というと、確認するとき、人に迷惑をかけているということを「自覚している」ことです。

 強迫神経症は、集談会でも人数が少なく、非常に治りにくいものです。入会したころ出席した集談会で、強迫神経症の話をすると、まず「ガマンしなさい」と言われたものです。そう言われても、私には納得できませんでした。

 生泉会(生活の発見会のなかでも、さらに強迫神経症で悩む人たちの集まり)に出席してから、リーダーのひとり明念さんに、「ガマンしなくてよい。五感を使って(働かせて)確認しなさい」と教わり、本当に救われました。

 私にとって「五感を使った確認」のやり方は、とても楽でした。外出するときのドアの戸締りは、「ガチャン」という音を聞けばそれで済みます。今でも寝る前は、玄関の鍵、照明、ガスなど、何回も確認しますが、ガスの元栓は閉めなくなりました。

 以前、清里(山梨県北杜市)で行われた生泉会の一泊学習会で、前泊したときに、『奇跡のリンゴ』の木村秋則さん出演のビデオを見ました。

 そのなかで木村さんが「無農薬のリンゴ栽培に成功したのは、土作りだった」と言っていました。そのときに、木村さんにとっての土作りが、私にとっては「生き方」なのだと気がつきました。

 それまで、私は症状を目の敵にして、「治そう、治そう」と闘ってきました。明念さんからも、私が「症状を治そうとしている」と言われたことがあります。私にとって症状は目の上のたんこぶで、生きていくのに邪魔なものでした。「この症状がなければ、なんでもできるのに」と思っていました。

 そのとき私は、強迫神経症が、これまで人に依存してきた自分の「生き方」を変えようと、教えていることに気がついたのです。ほんとうは「自分自身が、どう思うか」が大事なのに、それをしないで、まわりの人に「これで間違いないか」と確認していました。

 このように何回も確認して相手から嫌われる、そんな生き方をしていました。

症状も自分の一部

 今は症状も「自分の一部」と考え、症状を持ちながら生きていこうと思っています。そして、人に確認するときは、相手に迷惑をかけていると「自覚しながら」やるようにしています。

 母に対しては、強迫神経症になったのは育て方が悪かったせいだと、長い間、逆恨みしていました。本当に申し訳なかったと思っています。肩こりがひどくて実家に行くたびに「びわの葉温灸」をしてもらっていたのに、感謝のことば一つ、かけてあげませんでした。

 今でも亡くなった両親が心の支えです。

 それと明念さんや、自分を受け入れてくれた生泉会の仲間のおかげで、ここまでやってこられました。「人に確認する」症状を持ちながらでも夢をはたせたし、少しは自分を客観視できるようになってきたので、今は生活に充実感と幸せを感じています。

確認行為、強迫観念の泥沼を抜け出て
(N・Kさん・女性、45歳・団体職員)

強迫行為の泥沼

 私は、10 代から20 代なかばまで、不完全恐怖、確認恐怖にともなう強迫行為、また、観念的に頭のなかで確認する症状で大変苦しみました。明けても暮れても、強迫行為で日常の生活がまわらなくなり、ひどいときは、廃人のような状態でした。

 気になることがあると、確認したり、頭のなかで考えたりし、丈夫だと思えないと、次の行動に移れません。その強迫行為をしてスッキリしたと思っても、また、すぐ気になることがでてきて、いつまでたっても強迫行為をやめられないのです。

 もう、これで終わりにしようと思うのですが、強烈に襲ってくる、〝スッキリしたい〟という衝動に耐えられません。とても苦しくてつらくて、自分でも明らかにおかしいとわかっているのに、泥沼に入り込むと抜けられないのです。

 勉強も仕事もそっちのけ、まわりの人に変に見られても、家族に心配をかけても、自分が「スッキリした青空のような心」になることだけを目指してしまうのです。本当に自己中心的でした。

とく神恐怖に陥る

 私は曽祖母、祖父母、両親、姉、私の7人家族で育ちました。父は、普段はまじめで優しい働き者ですが、いったん酒が入ると人格が変わってしまう、いわゆる酒乱でした。私は物心ついたときから暴れる父の姿が怖く、いつも「今日はあまり酒を飲まないで、おとなしく寝てくれますように」と父の顔色をうかがっていました。

 母はさっぱりした気性の働き者で、家がごたごたしていても、愚痴ひとつ言わない人です。私は、父の性格を受けついでいるようです。小さいときから人見知りで、まわりから「おとなしい」「まじめだ」といわれました。「おとなしい」「まじめ」という評価は、私にとってはよくは思えず、落ち込みました。いつも母と姉に守られ、依存心の強い子どもになっていきました。

 小学5年くらいまでは、ランドセルのふたがちゃんとしまっていないのではと何回も確認したり、算数の応用問題が自分で納得して解けるまで机から離れられないなど、ちょっとしたところにこだわる傾向はありましたが、生活に支障が出るほどではありませんでした。

 とく神恐怖のきっかけは6年生のとき、文化祭で下級生が書いた作文を読んだことです。「危うく交通事故に遭いそうになったが助かった。でも、ランドセルにつけていたお守りの鈴が割れていた。身代わりになってくれたのかな」といったものでした。

 私は、「お守りは、ただの飾りではなく神様なんだ。粗末にしては罰があたる」となぜか強烈な印象を持ちました。その頃から神社や仏閣、仏壇、お守りなど、あらゆる祈りを捧げるものへのこだわりが始まりました。それが「?神恐怖」と知るのは、その後10年以上たってからです。

 だんだんこだわりがエスカレートし、たとえば今日はちゃんと勉強をやらなかったということがあると、自分のまわりのすべての神様、仏様に「すみませんでした」と謝らなければ気がすまなくなりました。さらにとらわれは広範なものとなり、謝る回数も5回、10 回と回数にもこだわりだしました。

 苦しくてしかたがないし、自分でもこんなおかしなことは止めたいと思うのに、止めることができず、スッキリするまでやってしまいました。でも、すぐに別の気になることが出てきて、また強迫行為がはじまりました。ただ、まだ小学生の私には、それが強迫行為だと知る由もありませんでした。

 中学校に入ると、さらにとらわれの対象はふえ、神様や仏様だけでなく、自分の言動などで友だちを傷つけてはいないかと気になり出しました。「大丈夫、傷つけていない」と納得するまで頭のなかでいろいろ回想していきました。友だちは皆、ハツラツとして、笑ったり泣いたり、青春しているのに、私はどうしてこんなことをしているのだろうとつらい気持ちでした。

〝スッキリ〟が生きる目標に

 高校は進学校でした。そこの、勉強もスポーツもまじめに一生懸命やるという校風が好きでした。私もがんばって大学に進学する夢をもっていましたが、それも一年生のなかばまで。だんだんとらわれが強くなり、強迫行為のために勉強らしい勉強はできず、疲れはてていきました。

 高1のとき、ホームルームの時間に「X からの手紙」をやることになりました。宛名に自分の名前を書いた封筒を各自1枚作り、それをシャッフルして、自分のところにきた封筒の宛名の人に、無記名で手紙を書く、というものです。無記名なはずなのに、私への手紙には名前が書いてあったのです。

 「あえて名前を書く」とあり、「君はいつか自殺しそうに見える、もっと明るくなれるように応援する」といった内容でした。私は彼の真面目な気持ちを受け取り、それほど嫌な気持ちはしませんでしたが、「自殺しそうに見える」ということばには、ショックを受けました。

 「私はそんなふうに見えるんだ、それは本当のことなんだ」と、どうしようもない気持ちになりました。そんなことがあって対人恐怖も強くなり、休み時間など身の置き場がないようなつらいときもありました。

 学校の成績は落ちていきました。スッキリしてから勉強しようと思って強迫行為をして、でも、いつまでたっても、スッキリできないから、勉強はいつまでたってもできない。その頃目的は進学ではなく「雲ひとつない青空のようにスッキリした心になること」になっていました。

嫌な感情を縄跳びで償(つぐな)う

 その後、友人たちはみんな進学したのに、私だけ進学もせず就職もせず、宙ぶらりんな生活で、就職予備校のようなところへ週3回、あとはファミリーレストランでアルバイトをしていました。

 その学校も症状が強くて半年で行けなくなり、アルバイトも強迫行為のため嘘を言って途中で帰ってきてしまったりと、責任感も何もありません。自己中心的で症状に振りまわされていました。

 目標はあるけれど、この「症状」があるために勉強や仕事ができない。この症状さえなければ、私は本当にこんな私じゃないんだとすべて症状のせいにしていました。変なプライドもありました。

 高校の終わり頃から結婚するまでが一番症状がきつかったです。自分の悪いところや怠けたと思うとき、その嫌な感情を持ちこたえるのができません。スッキリしたいという思いにかられ、それを「縄跳び」をやって償う、という強迫行為になりました。

 だんだん回数、飛び方などこだわりがエスカレートして納得するまでやらなければならないので、一日に何時間も縄跳びをやり、自分の罪を消してもらおうとしました。精も根も尽きはてました。

 体は、やせ細り、気が狂いそうなほどつらく、自分がいかにおかしいかも認識しているのに、いったん強迫行為のループに落ちると、これさえなければ、これで終わりにするんだ……と延々と続くのでした。

 確認行為もありました。車で犬や猫をひいてしまったのではないかと気になると、何回も何十回も戻って確認したうえ、自分の目が信じられず、母親も巻き込んで、一緒に車に乗ってもらい見てもらうのです。

 そのうちに、確認行為をするのが怖くて車の運転ができなくなりました。そして、ふっと我にかえり、こんどはまわりから「おかしい」と見られているのではないかという恐怖にかられました。

 進学校なんか行ったって、今はあのざまかと笑われているようで、形のない恐怖におびえました。近所の人や同級生に「今何やっているの」「どこで働いているの」などと聞かれるのを避けるため、今度は人を避けるようになりました。

『ノイローゼ全治への道』で発見会を知る

 たまたま本屋で『ノイローゼ全治への道』(馬杉保著)という本を見つけました。私はドキドキしながらすぐ購入し、一気に読みました。私みたいな人がいると、心に明るいもの見えました。森田療法という大きな温かいものに包まれる感じがしました。

 その後、生活の発見会に入会し、『生活の発見』誌を読みました。その頃は、自分の症状に近く、興味のあるところしか読まないという感じでしたが、M 集談会や一泊学習会にも参加するようになりました。

 そこではじめて自分のことを聞いてもらえ、受け入れられている気持ちを味わいました。でも、強迫行為の症状がでると、スッキリしてからでないと集談会にも参加できませんでした。

 〝スッキリする〟が行動の基準だったので、私は成長できなかったのだと今は思います。一方では、心のなかにはいつも「森田がある」という思いがあり、支えになっていました。ただ、理論的に学ぶことをしなかったので、その場しのぎのものになっていました。

 24 歳で結婚しました。はじめて実家を出て、夫や夫の家族、まわりには親戚が何軒もあるという暮らしに入り、しがらみがあり戸惑いました。

 私は結婚するまで、つらいつらいと言って生きていましたが、実際は現実ではないところで苦しんでおり、現実には何も見ていなかったのです。「いったい自分は何をしていたのだろう」と愕然としました。本当に何もできず、まわりの人に気のきいたこともできず、近所づきあいにも苦労しました。

 子育てをしている間も、何回か大きな落ち込みはありました。確認恐怖や強迫行為ではなく、どちらかというと公園に怖くて行けない、学校の集まりが怖いとか、運動会のとき一緒に見る人がいないという対人的恐怖的な悩みでした。

 嫁ぎ先は専業農家で家と畑の往復が主、外に出るのは買い物やたまに実家にいったりするくらいで、あまり人と接する機会がなく、たまに近所の人と話すとき、異常に緊張していました。

 強迫観念が強いと対人恐怖の方は気にならず、強迫観念が落ち着くと対人的にきついという感じでした。

がまんは恐怖突入ではない

 36 歳のときに勤めに出るようになりました。そして2年半くらいしたとき、症状が強く出て、にっちもさっちもいかなくなり、T 集談会にお世話になるようになりました。

 とても温かく迎えてくださり、いつも涙が出そうになり、帰りは心が軽くなりました。そして、とにかく毎日発見誌を1ページでも読んで1カ月なんとか過ごし、集談会に出るのを楽しみにして、6年たちました。

 集談会で自分のことを聞いてもらい、皆さんのお話も聞かせてもらい、だんだん、スッキリした状態でなく、もやもやと混乱した状態でも、ともかく目の前のことを、いやいやながらでもしてみる。

 少しだけでもいいから、家事などに手をつけてみる。そのうち、だんだんと散らかっていた部屋が片づくと、心が外に向いていき、気持ちが流れていく、というのが体でわかるようになってきました。

 でも、わかったようでも、また症状で苦しむ、ちょっとしたことから強迫行為の泥沼に入っていく。そして、また強迫行為を我慢して何とか心が流れていく、のくり返しでした。

 症状がきつくて強迫観念の泥沼に落ちそうになったあるとき、発見誌の「苦しみの最中にある人へ」というコーナーに目が止まりました。そこには強迫行為で苦しむ人の質問とそれに対する回答が載っていました。

 「不完全恐怖の恐怖突入は、我慢することですか?」との問いに「我慢は恐怖突入ではありません」とあったのです。

 私も、強迫行為を我慢し、がんばって行動すれば、心が流れると思っていました。でも、そこには「強迫行為を我慢するときの我慢は、強迫行為と同じ心のあり方です。そして〝強迫行為を我慢する〟自体が、すでにはからいなのです」と書いてありました。

 「対人恐怖の人が、必要に応じて人の集まりのなかに入っていくことにより、不安に直面する。不安恐怖の人が必要に応じて電車に乗ったりして卒倒しそうな感情に直面する。ならば、強迫観念の人はあるがままに、感じるべきを感じる、苦しむべきを苦しむということです。

 不快感を抱えながら、日常の生活に手を出してく。そして生じる感覚に、あるがままに直面する」とありました。そこを何回も何回も読みました。そして、私はいつも感じるべきを感ぜず、苦しむべきを苦しまないで逃げていた、と気づきました。

嫌な気持ちを抱いて目の前のやるべきことをやる

 私はいつも不安な気持ち、嫌な気持ちなどを感じるのが嫌で、それをなくしてから何事もやろうとしていました。なくしてからでないと、他のことに移れないのです。でも、なくそうとすればするほどなくすことはできず、やってもやっても、スッキリしないので苦しんでいました。「嫌な気持ち」があってはいけないと思っていたのです。

 でも、「嫌な気持ち」も「不安な気持ち」も「惨めな気持ち」も排除すべきものでなく、それを感じてそれを苦しみ、その嫌な気持ちを抱え込みながら、ただ、淡々と目の前のやるべきことをこなしていく、ということを発見会で学びました。

 苦しいことから逃げるのでなく、苦しいから苦しむということです。その頃から、ぼんやりとしか見えていなかったものが、だんだんはっきりしてきました。

 生泉会(発見会のなかでも強迫性障害をテーマにした集まり)に2回ほど出席し、同じようなことで悩んでいる皆さんのお話を聞くことができました。「それでいいんだよ」と言って受け入れてもらい、「こんな私だけれど、それでいいんだ」と思えました。

 生泉会では「五感を大切にする」と言われます。見よう、考えようとすると、普通にできることができなくなってしまいます。感覚的なもので判断してほぼ間違いないようです。

 それから、自分の力ではどうしようもないことを認めることも大切です。私は、自分でどうにかしようとしてもどうにもならないことを、どうにかしようとして、強迫行為の深みにはまり、苦しんできました。「何か大きな力にゆだねる」のも大切なことだと思います。

 生泉会ではまた、「強迫モード」ということばを教えていただきました。強迫行為に入りそうな、明らかに普通の感じではないとき「今、私は強迫モードだ」思うと強迫行為の深みに入らずにすむことが多くあります。

森田療法・生活の発見会で救われた

 私は、中学、高校、その後結婚するまで、本当につらく苦しくて、そして、子どもが少し大きくなってから、また症状が出て、どうしようもなくなりました。本来ならキラキラと輝いているであろう青春時代、私は強迫行為にとらわれ、つらい毎日を送りました。

 40歳近くになって振り返ったとき、とても惨めでした。10 代、20代を取り戻したいと思いましたが、あれはあれで、私の青春だったのかもしれません。あのときの苦しみがあったから、今こうして発見会を知ることができ、皆さんを知ることができたと今は思います。

 強迫行為のことは、夫にはまったく理解してもらえません。廃人のような状態だった私が、生活の発見会と出会い、森田療法に、そして集談会にどんなに救われたかを聞いていただき、神経症で苦しんでいるかたに、少しでもお役に立てばと思います。