体験記一覧[対人恐怖(コミュニケーション障害)]

自己受容の道(T・Uさん・37歳・主婦)

私の悩みの根源

 私は、長いこと、対人能力が人より劣っているという劣等感を抱えていました。発端は、幼稚園の 2 年間の「場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)」、簡単にいうと極端な人見知りの状態が長く続いていたことでした。幼稚園では自分から口を開くことがなく、友だちもいなくて、一人ぽつんと過ごしていました。

 場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)と診断されたわけではないのですが、大人になってからいろいろ調べてみて、自分にあてはまると思ったのです。この場面緘黙症は多分、森田神経質のヒポコンドリー性基調の素質と似たようなものかもしれませんが、「抑制的気質」という特有の気質があるそうです。不適応な状況に置かれると固まってしまって、しゃべらない、動かないという状態になるのです。

 私の場合は小学校に上がってからだんだんとしゃべるようになってはいきました。でも、人とうまく関われないという劣等感、これが背景となって、その後いろいろ対人恐怖症(社会不安障害)の症状が出てきました。この子ども時代の場面緘黙症が私の悩みの根源的な問題だと思っています。

対人恐怖を発症

 高校時代には激しい衆前恐怖になりました。でも 20 歳の時に森田を知り、逃げずに行動して恐怖突入を繰り返し、なんとかあがりながらも話せるようになりました。

 大学を卒業し、職業に就きましたが、この頃から対人緊張が出るようになりました。そして 22 歳で生活の発見会に入会しました。社会に出るまで、場面緘黙症を引きずって、ほとんど人と会話らしい会話をしてこなかったので、経験不足から緊張するのは当然のことだったかもしれません。次第に条件反射的に緊張し、顔がこわばるようになり、雑談していても一分も話し続けることができなくなりました。友だちと会って向かい合って話していても、緊張し、ぐったり疲れてしまいます。

 森田療法(森田)では、人とうまくやりたいという欲望があるから、緊張するのだ。その欲望にそって、人に会うことから逃げてはいけない、と教えられます。「緊張はなくならない」「あるがままになすべきをなす」と言い聞かせて、仕事や人づき合いをこなしていました。行動しているから、生活は後退することはありませんが、一向に良くならなりませんでした。逃げずに行動しているのに、なぜ良くならないのか? それは、背景に劣等感があったからだと思います。

 神経症を発症するには、背景にその人にとって何かうまくいかない現実があります。適応不安というものです。物心ついた時から抱えていた人づき合いが苦手だという現実、これが解消されない限り、緊張などの症状はすっきりなくならないということでしょう。

 自己受容ができればいいとわかってはいましたが、それは難しいことでした。なぜなら人づき合いが苦手なのは性格そのもので、治せるようなものではないと思っていたからです。衆前恐怖は、逃げずに行動していけば克服できたのに、劣等感はそうはいきません。

 森田療法の理解の浅かった私は、劣等感の克服は、森田療法では無理なのではないかと思って絶望感を抱いていました。人づき合いが上手なことだけが、人間として価値のあることで、人づき合いが苦手な自分は人間として価値がないという思い込みが、「かくあるべし」だということに気がつかなかったのです。

自己受容へ

 劣等感と対人緊張の症状を抱えたまま結婚しましたが、子どもが生まれた後も、劣等感が強く、対人緊張が強い状態でした。なかなかママ友もできずに悩んでいました。私は子どもの頃、友だちづき合いをする経験がなかったからこんなふうになったのだという思いがありました。だから、自分の子どもにだけはそういう思いをさせたくなかったので、なんとか友だちを作ってあげようと考えて、一生懸命行動しました。

 この子どものための行動というものがよかったと思います。なぜかというと、気分本位にならずに、結果をちゃんと評価できるからです。子どもが遊びに行って楽しく過ごせたら「ああ、今日はよくできた」と素直に認めることができたのが良かったと思います。

 幼稚園に入園してからもお迎えに行く毎日だったので、日が暮れるまでそのまま公園で友だちと遊ばせたりする生活を 3 年間続けました。幼稚園ではその他にもいろいろ経験を積むことができました。そして気がつくと、だんだんと心に根づいていた劣等感が薄らいできているような気がしました。

 このようにして、いろいろな経験を経て、15 年くらいかかってやっと自己受容への道が見えてきたのです。子どものための行動や、日常生活でいろいろ経験したり、あとは発見会のなかでも役を引き受けたり、人のためにということでいろいろ活動してきました。そういう事実の積み重ねが「こんな自分でもやれるんだ」という自己評価につながったと思います。人付き合いの苦手な自分は人間として価値がないとか、社交的でなければならないとか、そういう観念がだんだんと緩んできたわけです。

 相変わらず人づき合いは苦手だけど、それでも人並みのことはやっているんじゃないかとか、別に社交的でなくても自分には価値があるのではないかと思えるようになってきました。そうして、今は劣等感が小さくなって、自己受容もできるようになり、それにつれて対人緊張もなくなりました。

本当の自分とは?

 発見会のオンライン基準型学習会で、「もし症状がなくなったら何をしたいですか? どんな自分になりたいですか?」という課題があります。私の場合は「気兼ねなく一人の時間を楽しみたい」と答えると思います。私はいろいろ森田療法を学んできて、だんだん本当の自分というものが見えてきました。自覚が深まってきたとも言えます。

 でも、これは難しいことです。一人でいると変に思われるんじゃないかという観念が湧いてくるので、どうしても大勢のなかで一人で過ごすのは難しいです。でもこういう観念がなかったとしたら、私はまわりの人が楽しく過ごしていても、「私は私」と思って一人で自分のやりたいことを楽しみたい。一人で気兼ねなく過ごしたい。これが本音だと思います。後ろ向きに聞こえるかもしれませんが、これが本来の私だと思うようになりました。

 子どもの頃は場面緘黙症で一人遊びが好きだった私。小学校に入ってからは友だちもだんだんできてきたけれど、友だちに遊びに誘われても、本音としてはあまり遊びたくはありませんでした。一人、家で静かに過ごしていたいというのが本当の気持ちだったのです。もちろん今は人づき合いを楽しみたいという欲望もあることは確かですが、どちらかというと私は一人でいるのが好きなのかなと思っています。

 まずはこの「社交的でなければならない」という「かくあるべし」、これを自覚することが大切だと思います。ただ、この「社交的でなければならない」という社会通念は、今の日本では普通に当たり前のように言われていることで、小学校から中学、高校、大学、社会に出てからも社交的な人を求められるわけです。

 ですからなかなか社交的でなくてもいいとは思えないのが現実ですが、それでもやはりこの社会通念が「かくあるべし」になって対人恐怖の人を苦しめているという事実はあると思いますので、まずはこれが「かくあるべしだ」ということを自覚することが大切だと思っています。そうすればとらわれから解放されて、だんだんと本当の自分、自然な自分に近づいていけるんじゃないかなと思っています。

森田療法で学んだことは?

 私にとっての森田療法の重要なキーワードが「諦念」です。これは北西憲二先生の本によく出てきますが、森田療法の言葉でいうとたぶん「往生する」とか「弱くなりきる」というところだと思います。私の場合は抑制的な気質とか、神経過敏な性格とか、話すのが苦手ということを自覚し、諦めました。今もそうですが、なかなか言葉が出てこないという、こういう能力的なものは持って生まれたものなので、変えようがない事実です。

 だからこのままの自分でやっていくしかないんだというような諦めがつきました。この諦念というところを出発点として歩んでいくことこそが森田療法で言う「あるがまま」なのだということがわかりました。

 劣等感はまったくなくなったわけではなく、他の自分の良い面というものに目が向くようになったということだと思います。劣等感に悩んでいるということは、自分の弱点だけに目がいってしまい、そういう自分はダメだと思いこんで、自分の良い面に目が向かない状態だと思います。私は社交的ではなくて、大勢のなかでワイワイ過ごすよりも、家で一人で静かに過ごすのが好きなのが本当の自分だとわかりました。

 社交的ではないですが、一人でいろいろ考えを巡らせて何か人のために役立つこととかを考えて企画したり、作り上げたり、それを発表したり、表現したりする、そういうことが好きなのです。今、私は「クリエイティブなオタク人間」というのが自分の良い面なのかもしれないと思っています。

対人恐怖と発見会と介護と(H・Yさん・45歳・介護職)

 父、母、兄との確執が続き、高校2年くらいから対人恐怖の症状が現れ、心が壊れました。仕事を転々とするなか、介護という仕事と出会い、同時期に発見会と出会い、自分の居場所が見つかりました。今は認知症の母の介護もしています。

家に居場所がないなかで

 私の症状は対人恐怖、視線恐怖、醜形(しゅうぎょう)恐怖、自己否定感が強いことです。

 家族は父、母、兄、自分の4人です。父は自分の考えを曲げず、世間体をとても気にする、真面目な人です。母も、自分は絶対正しいと思っていて、神経質です。兄はよく悲観的なことを口にします。

 お互いが自分は絶対正しいと思っているので、喧嘩や口論が絶えず、私には居場所がない家庭でした。そのため、とても内気で情緒が安定しない子どもでした。

 小・中学校時代は先生から「人の目を見て話しなさい」とよく言われ、通信簿には「積極性がほしい」といつも書かれました。国語の音読や音楽の発表がとても苦手で、頭が真っ白になってしまったり、吹き出してしまったりしていました。そんなことがありましたが、目立ったいじめなどはなく過ごしていました。

心が病んできた

 心が病んできたのは高校2年の大学受験期ぐらいからです。母親の自分に対する教育熱がとてもすごく、ヒステリックになっていました。母が鬼のように怖かったです。

 その頃、兄と相部屋だったのですが、勉強を早目に切り上げて寝てしまうと「Hが、勉強しないで寝てたよ」と兄が告げ口し、母の怒りに触れたことがありました。

 その頃私は、すでに勉強できる精神状態ではなく、勉強する振りをして、勉強机にかじりついて朝まで泣いていました。兄の告げ口が怖くて、布団に入ることができず、机に突っ伏して朝を迎えることがたびたびありました。そういう毎日がずっと続きました。

 大学ノートに「この兄さえいなければ……」「こんなことはあってはいけないことなんだ」「この血は呪われている、絶対自分で終わらせてやる」などと書きなぐっていました。それが引き出しいっぱいになっていました。相部屋でしたが、兄が同じ部屋に居るだけで背中に悪寒が走りました。

 通信講座・家庭教師・予備校などいろいろやりましたが、勉強できるはずもなく、一浪したものの大学には受からず、受験期は終了しました。

 症状はだいたい高2から3年ぐらい続き、この時期に心が壊れたのです。仲の良い友人が数人いましたが、「死にたい、死にたい」と繰り返していました。

アルバイト・派遣社員時代

 受験期は終わりましたが、就職するってことは考えられなくてアルバイトを転々としていました。主にやったのは建築現場の荷揚げの仕事です。数十キロの荷物を担いで搬入する、体力勝負で人間関係はあまりない仕事なので働くことができました。

 その頃には視線恐怖、醜形恐怖を発症していて、人の目が見られなくなっていました。人と視線を合わせると相手に不快感を与えてしまうと思い、目を合わせられませんでした。視力はよくないので眼鏡をはずすと相手の顔がぼやけます。それを利用して、かろうじて仕事をしていました。そのときに読んでいた本に『完全自殺マニュアル』『完全失踪マニュアル』があります。

 そんなアルバイト生活を数年間続けていましたが、家にいることに限界を感じ、アルバイトで貯めたお金を持って、家を飛び出しました。主に上野のカプセルホテルなどを転々としながら「これから先、どうしたらいいんだろう」と考えました。家に積読してあった本を持って飛び出したので、その本を読んだりもしました。そんな生活を数カ月し、お金が尽きたので、しかたなくいったん家に戻りました。家に戻ったものの、絶えない両親の口論、そばにいるだけで背中がぞっとしてしまう兄の存在には耐えられず、「やはりこの家にはいられない」という思いから、派遣会社に就職、新潟の工場で働くことになりました。

 このときの私は、視線恐怖、醜形恐怖が悪化していて、今考えるとあきらかに変な考えなのですが「自分は世界一醜い目をしている」と本気で思い込んでいました。

 工場では、クリーンルームの仕事(全身を白い服で覆ってやる仕事)があったのですが、人の顔が見られないので、人の識別が困難でした。後ろ姿や靴に書いてある番号などを見て人を識別し、なんとかごまかしごまかして仕事をしていました。そんな状態だったので3年で限界となり、退職し実家に戻ることになりました。

 実家に戻る前に、「新潟に来たのだから、前から行ってみたかった佐渡に行っておこう」と佐渡に行きました。でも、症状で顔を上げられなかったので、景色は目に入ってきません。佐渡汽船に乗っているとき、海面を見て、「飛び込めば死ねるかな」と涙が流れたのを思い出します。

 いったん実家に戻ったものの、相変わらず居場所がなく、今度はA市にアパートを借りて一人暮らしをすることにしました。アルバイトぐらいはできるだろうと思っていたのですが、その頃にはもう家から外に出ることができなくなっていました。畳に横になって手鏡を持ち、四六時中「こんな目をしていたら生きていけない」と自分の目を見ていました。

 目の隈(くま)が気になり、総合病院の皮膚科を受診するも相手にされず、美容外科に行ったら良くなると言われました。もうこれしかないと二重を一重にする整形手術をしました。実際には良くなったのかはわかりませんが、「やるだけのことはやった」という気持ちなり、なんとか図書館などに行けるようになりました。それでもアルバイトをすることはできず、お金が尽きて再び実家に戻ることになりました。

精神科を受診、社会復帰へ

 このとき、観念してはじめて自分の精神状態を家族に伝え、精神科を受診しました。この頃、「お金が尽きてロープが買えず、自殺すらできなかったらどうしよう」と焦り、ロープを買ってきて部屋に吊るしておいたこともありました。

 診断名をはっきり言われた記憶はなく「うつ状態」みたいに言われたのではないかと思います。薬をたくさん飲んでろれつが回らなくなったり、よだれが大量に出たりしていた時期もありました。

 ディケアへの通所を勧められ、そこでゲートボールをしたり、いろいろなプログラムをしたりしました。その病院で精神障碍者の社会復帰施設の作業所を紹介され、通所することになりました。ミーティングやクッキー作り、清掃訓練などをしていました。そこではじめて温かい人間関係というものを体験したなぁと思います。

 その頃よくやっていたのは、「目合わせをしてください」といろんな人に声をかけ30秒ほど目を合わせてもらい、「大丈夫ですか、醜くないですか」と聞き、「大丈夫ですよ」と言われるとそのときはほっとしますが、すぐにまた不安になり、同じ行為を繰り返すということでした。

 そこで仲間(利用者)との交流や、時間外にも話を聞いてくれたスタッフなどのおかげで徐々に心の状態は回復してきました。2、3年通いました。29歳になっていました。

介護の仕事との出会い

 それまでの仕事を探す基準は「人と関わらないでできる仕事」だったのですが、作業所での温かい人間関係を経験し、30歳になる前に「やりがいのある仕事」「人と関わる仕事」をしてみたい、に変化しました。はじめてと言っていいほど、前向きな意欲が湧いてきていました。

 そのころ、テレビで偶然ヘルパー2級という資格があるのを知りました。そのとき兄が「あんな資格、取っても意味ないよ」みたいなことをつぶやいたのを記憶しています。それでも1カ月で取得できる短期集中コースに申し込み、資格を取得できました。

 最初はパートでしたが、有料老人ホームに就職できました。そこはいい意味でいい加減でゆるい職場だったので、働くことができたのだと思います。対人恐怖、劣等感の塊だった自分ですが、介護の仕事と出会えたのはとても幸運だったと思います。

 こんな自分に入居者さんは「ありがとう」「あんたはいいよ」「優しいからいいよ」など、たくさん肯定してくれました。介助をしているときに自分も好きだった入居者のおばあさんから「あなたのことが大好きです」と言われたことを思い出します(笑)。以前の職場のケアマネジャーからは「Yさんは利用者さんから好かれる才能がある。それを伸ばしていけばいいよ」と言ってくれたのが印象に残っています。

 介護の仕事をはじめるまでは、劣等感の塊のような人間でしたが、自分を認めてくれるおじいさん、おばあさんや同僚の存在が、自分の硬い劣等感を少しずつ溶かしてくれたと思います。

 以前読んだ本の中に「かてて加えて、これといった仕事もなく浪人状態という私の現状。(介護の仕事に対して)そうだ、これだよ、これやりたいよ俺! ずっとやらせてよ!」(田部井康夫『18坪のパラダイス・デイサービス みさと奮闘記』より)という文章があり、自分の状況に似通っていて、自分も介護の仕事をがんばっていこうと思いました。

 職場で仲間もできました。ときどき集まっています。母が認知症になってしまったのですが、その母のケアマネジャーは、以前の会社の上司です。よくケアマネジャーと合わないという話を聞きますが、その人とは気楽に話せます。介護の仕事をしていて良かったと思います。

発見会との出会い、そして集談会へ

 介護の仕事をはじめたころ、対人恐怖、視線恐怖、劣等感の塊の自分ではとても働くのは困難で、なんとかならないかと、必死にネットで調べていたところ、生活の発見会のホームページを見つけました。自分と似た症状の体験談が載っていて、藁(わら)にもすがる思いで入会しました。

 初心者懇談会になんとか参加して、通える集談会に転々と参加していました。当時、最寄りの地域で基準型学習会が開催されており、参加しました。そこで自分と同じような対人恐怖症の人がこんなにいることを知り、感動したのを覚えています。

 同じような症状の人と交流でき、連続講師からは日記で励ましていただき、とても有意義な3カ月間でした。終わった当初はとても良くなった感じがしたのですが、症状は治っておらず、再び、家から通える集談会を転々としていました。

 対人恐怖症のため、どこの集談会にも定着できずにいたところ、基準型の世話人だった人から今の集談会に誘ってもらい、通うことになりました。世話人の仲間に入れてもらい、毎月通えるようになりました。

森田療法に出会えたことに感謝

 基準型学習会や集談会活動をとおして学び、知った心の法則です。気持ちがとてもラクになりました。

 ・浮かんでくる感情は天気のようなもので、自然に発生しては消えていく。感情に責任を持つ必要はない。

 森田療法は優しいなと思いました。嫌な感情が浮かんできては「こんな感情が浮かんできてしまう自分」を責めていましたが、それに責任をもたなくて良いと言ってくれているのは救いです。

 ・気分本位から目的本位の生き方へ

 今までは気分に圧倒されていて怠惰な生活を送ってきたなと思います。これからはやりたいこと・今できることを、一歩ずつ行動していきたいと思います。

 ・あるがまま

 以前、集談会でもよくしていた質問に「自分は精神障碍者・健常者のどちらなのでしょうか?」があります。基準型学習会の日記でも質問しました。

 今はその質問は頭に浮かばなくなりました。今は障碍者でも健常者でもどちらでもいい、あるがままの自分で、できること、やりたいことをやっていけばいいのかなぁと思います。

 ・生の欲望

 「自分はあれをしたい」「これをしたい」という生の欲望は大切だと思います。自分も、EA(感情に問題を抱えた人が集まる自助グループ)・精神障碍者が集まる自助グループ・車椅子ダンスボランティア・認知行動療法・マインドフルネス・合気道などなどいろいろ手を出してきたのですが、続きませんでした。でも、「手軽に手を出す」はいいと思います。自分にとっての生の欲望は「生活の発見会」「介護」そして大好きな「マラソン」です。

 最近は思想の矛盾(現実と理想の乖離からくる苦しさ)が軽くなってきたかなと思います。今までは、「高い理想を持って現実的な努力ができず、失敗をする」を繰り返し、苦しんできました。でも、そのなかでも少しずつ続けてこられたこと(生活の発見会・介護・マラソン)があり、等身大の自分が見つかってきたと思います。

 集談会では、世話人から代表幹事を経験し、いろいろ貴重な体験をさせてもらいました。この恩を忘れず、これからも集談会へ参加したいと思います。

 母が認知症に

 母親が認知症になりました。今は74歳の母を78歳の父がメインで介護しています。自分は受診の付き添いや父親のフォローをしています。

 最近、認知症の人の家族会に入会しました。その会の会報に「実りある人生を『家族の会』とともに」という連載があり、楽しみに読んでいます。自分は今まで症状ばかり気にしていて実りがなかったと思います。これからは発見会で人間について、生き方について学びながら、介護の仕事、母親の介護と介護の分野でがんばってみたいです。

 これから

 今まで介護の仕事を10年以上してきましたが、あまりにも介護のことを知らないことに気がつきました。自分の症状ばかりに目がいっていて仕事の知識や能力向上のための努力をしてきませんでした。最近読んだ本のなかに、「男性の介護が増えています。私は、これは災難ではなく、むしろチャンスだと思います。親の生きざまや老いていく姿、死んでいく姿と真正面から向き合ってほしいのです。それはたぶん、親から学ぶ最後のチャンスなのですから。

 そして、逆の立場から言えば、老いて、介護を受けて死ぬ姿を見せるというのは、まさに、子どもにしてあげられる最後の子育てなのではないか」(島村八重子『ケアプランを自分でたてるということ』より)とありました。

 この文章を読んで、これからは両親のことをしっかりサポートしていきたい、向き合っていきたい。それが、両親がくれる最後の贈り物かもしれないと思いました。

 今まで喧嘩ばかりの両親でしたが、母が認知症になって、父が一生懸命介護している姿はなんだか微笑ましく思えます。今は両親への恨みは消え、両親には感謝をしています。あんなに恨んでいた兄でさえ悪い人じゃないと、今は思えます。

 今やっと、過去が過去になった気がしています。

 一度はもう仕事は一生できないと思っていました。心は壊れちゃったのかなという感覚もあります。なので、まだできないことが多いのですが、一歩ずつ行動を起こして、少しずつできることをふやして、自分のやりたいこと、夢に近づいていきたいと思います。

 自分のやりたいこと、夢は、

 ・対人関係の恐怖でとても悩んできましたが、そういう人に寄り添える人になっていきたい

 ・仕事としての介護、両親への介護と介護の分野でがんばっていきたいです。これからもよろしくおねがいします。