出会った人達、出会う人達 Y.S 女性 アルバイト
はじめに
2023年7月、この体験記を書いています。
今から12年前の7月に、私は通っていた高校に、ある朝突然に行けなくなりました。突然と書きましたが、振り返れば予兆はありました。
燃え尽きた中学3年
中学3年生の夏ごろから、すごく悩んでいました。何に悩んでいたのかというと、受験勉強が上手くできないなどありましたが、ずっと頭に悩みが重たく乗っていました。長く剣道をやっており、部活が一段落して生活リズムが変わったのも自分にとっては大きな環境の変化でした。それまでは剣道、学校、勉強、その他いろんな活動を今ではどうやっていたのだろうと思うくらいに、10代ならではのエネルギーでこなしていたし、頑張れば頑張るほどに結果が出ていた時期でした。まるでいろんな歯車が上手いこと、かみ合って回っている、そんな感覚です。
しかし、環境が変わり、そのバランスが崩れていきました。頭ではもっと頑張らなきゃと思っているのに、身体はその通りには動いてくれない、頭と身体がどんどん離れていくようでした。中学校は毎日通えていましたが、土日に少し異変がありました。土曜の朝、習い事に服が決められないという理由で休むことがあり、日曜の朝にあった塾の夏期講習には、ほとんど通っていませんでした。成績は落ちていたのですが、なんとか受験は上手くいきました。
焦る毎日
高校に入学した私は心機一転、勉強を頑張ろう!と意気込んでいました。当時のノートに京大絶対合格!と書くほどでした。そして成績も一位を取るぞ!と自分に言っていましたが、進学校だったので、当然、周りは成績の良い子ばかりです。理想通りにはいきません。成績は最初から中の下あたりでした。その頃は、頑張れば頑張るほど結果は出るもので、結果が出ないのは自分が頑張っていないせいだと自分を責めていました。もやもやを晴らすために、塾を変えてみたり、積極的に行事に参加するなど、一生懸命に頑張っていました。そして二年生になり、文化祭を一生懸命準備し、本番が終わった次の登校日の朝、私はそれまでの糸が切れたように身体が動かなくなりました。
助けられて
実は、私は悩みの一切を学校に行けなくなるまで、誰にも相談したことがありませんでした。なんだか自分の恥をさらしたくないし、人に相談したからって何になるんだろう、そもそも相談するという考えがありませんでした。しかし学校に行けなくなり2日、3日と経ち、5日も経てば学校に状況を説明せざるを得なくなりました。
私は部活の顧問の先生に呼ばれ、母に送ってもらい、放課後の学校に行きました。そして、言葉にしたことのない思いを先生にぽつりぽつりと泣きながら話しました。幸いなことに、顧問の先生は身近に抑うつ症(抑うつ神経症)を経験している人がいて、とても理解があったのです。
落ちたくない
それから私は残りの1学期は休み、2学期の9月から登校しました。週に1日通ったり、その状況に少し慣れてくると、週3程度の登校になりました。当然単位が足りなくなるので、学校と調整して、単位すれすれの授業は必ず出るように気を付けていました。診断書が必要なので病院にも通い出しました。私は自分がいきなり虚弱体質になったようだと感じていました。少しの時間で、すぐ疲れていました。心の中は、学校に通う自分(自力で通えず母に送迎してもらっていました)が、周りの子とまるで違うように思えてしまい、とてもつらい時期でした。学校や家族、周りの人たち、沢山の方に支えられ、本当にぎりぎりで卒業することができました。一時休学を勧められたことがありましたが、私はもし休学したら、一年下の子と同じクラスなんて絶対に嫌だし、もっと先の見えない暗闇の中に落とされてしまうのではないかと恐れていました。その為、休むという選択を取らず、進学することに決めました。受験勉強は1日3時間できれば良い方でした。でも勉強すれば、体調のことや、これからのことを考えなくてもいいので、却(かえ)って楽でした。受験会場に行くのもやっとでしたが、なんとか受験し、京都の大学に進学させてもらいました。
やっぱり無理だった~抑うつ症(抑うつ神経症)のぶり返し
県外だったこともあり、一人暮らしをしながら大学生活が始まりました。その頃は、今はつらいけど、その内なんとかなるんじゃないかという淡い期待がありました。自分が当たり前にあると思っていた人生の流れから外れるなんて、絶対嫌だと思っていました。しかし、高校の時もなんとか行けて週3日だったので、大学にも少しづつ休む日が増えていき、7月のテスト週間のころには、ほとんど通えなくなりました。丁度、京都は祇園祭りの頃でした。その頃はご飯を炊く気力もなく、固い米を水にふやかして食べるという有様でした。限界を感じていた私は母親に電話して、来てもらうように頼みました。すぐに母は来てくれて、1週間ほどの後、広島に帰る決断をしました。不思議ですが、これでやっと休めると少し安心したのを覚えています。
抑うつ症(抑うつ神経症)の暗闇の中で出会った「森田療法」
広島に戻った私は、もう休むしかないんだなと思い、自分の体調の問題と向き合おうと決意していました。それまで病院は、ただ診断書をもらうためだけに行っていましたが、積極的な気持ちで通い始めました。ここからは長い回復への道のりになりました。私は抑うつ症(抑うつ神経症)に関する本を沢山読みました。が、難しい本は頭が疲れてしまうので、イラストが描かれているものを中心に読みました。その頃に出会ったのが森田療法について書かれた「森田療法のすべてがわかる本(健康ライブラリーイラスト版)」(北西憲二 監修、講談社刊)でした。難しい言葉を読むだけで頭が疲れてしまう私にはちょうど良く、イラストと一緒に頭にインプットされるので、私にとっては分かりやすかったです。この本と下園壮太さんという方が書いた本に載っている認知行動療法の部分を沢山読み込み実践しました。森田療法は東洋、認知行動療法は西洋で、時々言っていることが真逆だと感じる時もありました。でもいろんな療法をいろんな角度から試してみることは、森田療法を私なりに深く理解することに役立った気がします。
繫驢橛(けろけつ。杭につながれた馬が逃げようとするほど、余計に縄に絡まり、苦しむことのたとえ)
その頃の生活は用事がないと外出しないので、いわゆる社会的な引きこもり状態でした。ですが、それなりに抑うつ症(抑うつ神経症)の急性期のしんどさはなくなり、波がありながらもパン屋のアルバイトを週3程度するほどには回復しました。この頃の気持ちは、早く同世代の子に追いつかなきゃと思っていました。だんだんと周りは、学生から就職する年になっていきました。週2、3日で働いていた私はせめて週5で働けるようになりたい、そうじゃなきゃ周りのようにはなれない、と思い就労移行支援(障害など様々な問題で働くことが難しい人を就職に向けてサポートしてくれる所です)に通うことに決めました。が、上手くはいきませんでした。やはり体調の問題で、変わらず週3で通うようになりました。私は自分の理想と体調の現実が全く合わない状態に落ち込んでいました。薬もいろいろと試しましたが、ほとんど効かず、どうしたら良いのか分からなくなっていました。結局、就職にはつながらず、働いてもなく、どこにも通わない(カウンセリングには月2ほどで行っていました)という状態になっていました。なんとか自分で行動を起こしても、体調は良くならない気がして、無気力状態のようになっていました。そうは言っても、この時も認知行動療法と森田療法の本は、心の支えになっていたと思います。家の中でじっとして悶々とする日々が続きました。
新しい出会い~自然と心が内側から少しずつ外側に向かっていく
ところで、私には兄が一人と姉が二人います。2018年に姉二人がどちらも出産するという出来事がありました。この頃本当に人生に希望がなく、二人新しく生まれるなら一人いなくなってもいいんじゃないかと頭に浮かぶほど、鬱々としていました。しかし姉たちが里帰り出産で帰ってきて、家の中が大変にぎやかになりました。思えば高校に通えなくなった2011年、県外で働いていた姉が震災で戻ってきたりして、同居していた時期がありました。本当に姉たちが家にいなかったら、高校に通いきることはできませんでした。
無事に姪っ子が二人誕生し、世話の手伝いをする日々が始まりました。赤ちゃんをただ抱っこするだけでも(ママじゃないとダメな子もいましたが)感謝されました。家にいるだけで忙しい時期で、なんだか充実感がありました。赤ちゃんと接するだけで、心が底上げされるような感じがしましたし、何より心の奥がどっしりとしていく感覚になりました。赤ちゃんを見ていると、人はご飯を食べて排泄して寝る、シンプルでそれでいいのだと思いました。振り返ると、自分と同じくらい大切な存在ができたことで、自然と心が内側から少しずつ外側に向かっていく最初のきっかけになった気がします。
当事者会(自助組織)に出会い、光が差す
もう一つ同じ時期に出会いがありました。ネット記事でひきこもりの記事を見つけ、偶然にある当事者会(自助組織)を知りました。私のイメージでは引きこもりというのは男性が多く暗いイメージがありましたが、その当事者会は、ひきこもり女子会といって、女性だけの当事者会でした。
なんだか明るい雰囲気に惹かれた私は、近隣の県で開催されるということで、思い切って参加してみることにしました。そこで主催者の方が話された体験談の内容が、私の高校時代とその後に似ていました。それまで身近に似たような経験をした人はおらず、いわゆる一般的なコースを歩んでいる人ばかりでしたし、私もそれが幸せな大人の条件みたいなものだと考えていました。大学を休学して戻ってきてから、なんとなく予想はしていましたが、高校にぎりぎりで通っていた時期を激痛だとしたら、先が見えず体調に左右される状態は、嫌な鈍痛のようで、これはこれで、前とは違うしんどさだと感じていました。体調でしんどいのもあるけど、それによって起こる社会的な状況がもっとつらくさせているといった感じです。その主催者の方は、ひきこもりという言葉もないような、今より周りの理解が無い時代をいろんな経験をして、時につまずきながらゆっくりと回復されてきたそうです。そして今、大勢の前で話している姿が、私には結構幸せそうに見えました。これは私にとって少し先が開けたような瞬間でした。もちろん人それぞれ辿(たど)る道は違うけど、社会に出ていくイメージが少し出てくる気がしました。
自分の足で
その後、育児の手伝いで県外の姉宅に何度か滞在するようになりました。環境が変わると、実家にいるよりも動いていて、元気になっていることに気づきました。いろんなことがあり、私は一人暮らしを検討するようになりました。いきなりは自信がなかったので、マンスリーマンションを経て、ついに一人暮らしを始めました。これも女子会で出会った人で、一人暮らしをしている方がいて、相談に乗ってもらっていました。買い物の帰りに、なんだか幸せだなと思ったり、純粋に楽しいなと思う時間ができました。本当に久しぶりの感覚でした。
初めての懇談会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を学習し体験交流する場)
半年ほど経った頃、ふと森田療法の自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害から立ち直った人々の自助組織)のことを思い出しました。森田療法を知った頃に、広島にも集談会(森田療法を学習し体験交流する場)があるのを知っていましたが、その時は行かずにそのままにしていました。心が外側に向きつつあったので、純粋に人の話を聞いてみたいという思いから、H平日女性懇談会に連絡を取って参加してみることにしました。コロナで初めての参加はオンラインでしたが、気軽に参加できました。自分よりも年代が上の方々ばかりで、皆さんいろんな経験をされていて、とても興味深く聞きました。初めての参加では、あまり自分のことを話さなかったような気がしますが、回を重ねるごとに、過去の経験と今の状況を言葉にしていきました。集団の中で深く自分のことを掘り下げて話し、聞いてもらい、そしてフィードバックがあるという場は、今まで体験したことがありませんでした。カウンセリングとはまた違いました。時に言葉に詰まりながら、泣きそうになりながら、実際に泣きながら話すことで安心感と発見がその都度ありました。
1か月に一回、自分の考えをアウトプットすることができるという経験は、私に安心と勇気をもたらしました。それまで5年働いていなかったのですが、一応、経済的自立を目指して一人暮らしを始めたので、生活に慣れてきた頃、アルバイトに挑戦してみることにしました。理想と現実の折り合いが少しづつ上手くなっていったような気がします。その頃、森田療法を学ぶ懇談会で「ベストも良いけど、ベターを目指そう」と励ましてもらっていました。
森田療法を学び広がる世界
それから私はクリーニング店で、週3でアルバイトを始めました。久々の仕事で体調面でも不安もあったのですが、無事1年半ほど続いています。仕事以外の活動も広がりつつあります。懇談会に参加された方の縁で、ボランティアを始めました。オルタナティブスクール(公教育とは異なる、独自の教育理念・方針により運営されている学校の総称)というところで、より様々な形で子供たちが過ごせる場所です。最初は保護者や子供の中に入っていくのが、子供のいない独身の私には場違いの様に感じられ、緊張することがありました。しかし、気になりながらも、行ってみたいという気持ちに正直になって、ただそこにいることにしました。すると心の中の楽しい気持ちなどポジティブな感覚を味わい、自分がより元気になっていく気がしました。それまで家族以外の大勢の中で、自分がありのままでいる感覚で過ごすことはほとんどありませんでした。心をオープンにして接することが徐々にできるようになってきている気がします。
森田療法を学んでの気づき
懇談会(森田療法を学習し体験交流する場)は、毎回様々な学びがあります。症状は皆違うのに、不思議と自分のことを俯瞰して見ているような気がすることがあります。その中で気づいたことは、今までどれだけ自分を自分でいじめてしまっていたのかということです。自分をいじめた考え方は元気を奪い、挑戦したい気持ちにブレーキをかけてきます。このことに気づいて考えを和らげたら、エネルギーが抑え込まれずに前に出ていくようになりました。
また書くのは少し恥ずかしいですが、恋愛というものも私の中では大きく成長につながりました。なんだか辛かったり焦ったり、上手くいかないこともありました。結局、人の悩みは人間関係なんだなあと思います。人に限らず何かを好きになるエネルギーというのはすごいです。
森田療法に出会ったことで ~やもやを抱えながらも、現実に沿って前向きに生きられる今~
私が森田療法を学んで良かったと思うことは、もやもやを抱えながらも、現実に沿って前向きに生きられるようになっていることです。以前は一つ大きいもやもやを感じると、取り囲まれて動けなくなっていました。そして私にとって懇談会は、心のクッションマットのような存在です。安心して何でも話せる場所があるから、また挑戦することができます。
最近、自分のままで、社会の中で心地よく生きられるというのが本当に有難いです。閉じこもっていた時は、ここまで元気になる未来を想像できませんでした。また、私が心身元気でいることが、支えてくれる人々にとって一番嬉しいことなのではないかと思っています。
終わりに
これからも様々な事に挑戦し、人の輪を広げながら、肩の力を抜いて楽しむことができればと思っています。しんどい時は、なかなかポジティブになれませんが、起こる出来事は同じでも、心がけ次第で生活の質を変えることはできるのではないかと今、感じています。
いつも暖かく話を聞いてくれるH平日女性懇談会の皆様、そして今回、体験談を書くよう勧めてくださったMさん、有難うございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
NPO法人生活の発見会は、医療機関でないため、薬を使わず根本的に神経症(パニック・社交不安・強迫・不安症など)に対処する「森田療法」が学習できる自助組織です。
全国120の森田療法協力医と連携し、神経症でお悩みの方を支援しています。
以下動画では、森田療法について詳しく解説しているので、ぜひご覧ください。
和田秀樹先生のYouTubeチャンネルで当コラムを監修している「生活の発見会」が取り上げられました。