森田療法を学び対人恐怖症と抑うつ状態の改善へ~「あるがまま」の自分を受け入れることの大切さと難しさ~
子どもの頃の私
私は姉1人兄1人の甘やかされた末っ子で育ちました。父は祖父や叔父と一緒に働き、母は我が家の1階で商売をしていました。お店の人やお手伝いさんもいて多人数の中で育ちました。父は私が物心ついた頃には病気がちで、小学校1年の頃には「もしかしたらもうすぐ死にはるのかな?」と思っていました。父は健康を取り戻すことは出来ず、自分の能力を発揮できず悔しい人生だったと思いますが、やさしく理知的な人で75歳まで生きてくれてみんな大好きでした。母は喜怒哀楽がはっきりしていて、まじめですが自己肯定感の強い人で、父の心配もありながら、へこたれない人でした。自分がこどもの時、叔父と義母の元で育った環境もあるのか、私たちを過保護に育てたと思います。
子どもの頃の私は内弁慶で、家ではわがまま言っていても1人で消しゴムひとつ買いに行けない子供で、また母いわく、小学校の頃、組替えがあった時、1学期は子供ながらに少しやせて、2学期からはふっくら元に戻り委員などもしていたそうです。そのような私ですからクラスに自分が慣れた頃にはグループが出来ていて、後から仲間に入れてもらっていたように思います。商人の町で育ったこともあり、世間体を守ること、森田療法で言う「かくあるべし」は周りから与えられたと思います。
小学校・中学校ではあまり意識することなく過ごしました。中学校までは勉強は、わりあい良くできたので、高校は校区の上の方の高校に進学しましたが、1年生の時から休み時間も勉強している人がいたり「お手洗い一緒に行こう」と誘ったら「気持ち悪い」って言われたり、私にとってはなかなか驚きの環境でした。目的が明確にある人と、そうでなく何となく中学まで優等生をしていた私とは歴然の差があったのでしょう。
この頃、初めての「いとこ会」があり、そろそろ私が紹介される番かな?と思っていたら同年同性のいとこと私が2人で1人のように合体したように紹介され、私はスルーされてしまい思春期でもある私にはショックな出来事でした。
学年の3分の2位の人は国公立に行くような学校で、私は受験勉強が少々しんどくなり受験科目数が少なく内申書で一次選考される大学を選んでしまい、二次試験に進めず、実力を試せなかったことは、かなり長い間、自分の中にわだかまりが残りました。すべて自分の短慮のせいですが。
就職、結婚 そしてつまずき
人に興味があり大学では教育心理学部に進んでいましたが、やがて就職の時期になり、やはり目的を明確に持っていなかった私は、電機会社のコンピューター部門に入り、プログラミングを学び始めましたが、大阪の分室は小規模で、やはり少ない人数の中で気を使ってくたびれていました。帰宅後、一度ベッドに横になり、しばらくして夕飯の手伝いに行くありさまでした。
しかし、電話が苦手で、特に自分から掛けるのに時間がかかる私でしたが、社会人になってやっと電話の応対には慣れました。でも今も得意ではありません。
やがて主人と知り合い結婚をしましたが、時代もあり、主人は猛烈に働くサラリーマンで、夜が遅いのは当たり前で、今でいうワンオペに近い状況で自分では“準母子家庭”と思っていました。夫は毎晩毎晩遅くまで働き、必ず家で夕食をとります。私は母がしていたように暖かいものを食べさせなくてはと思い込んで夜遅くまで起きて待っていました。体力のない私にはしんどい事でした。やがて長女を外で遊ばせる時期になりマンションの公園に行くと、遊んでいる数人の子供たちが奇声をあげ、娘を怖がらせました。そんなに気が合いそうではないのに、私はその時に何故かそのグループと仲良くしなければ、そして娘を負けないように強くしたいと思いこんでしまいました。後でよく考えれば他に気が合う人もいました。
遊ばせ始めるとお互いの家に集まるようになり、その時、他のお母さんたちが家をきれいに片づけていて、私はしんどくて何とかやっているだけなのにと思い、何故か大きな劣等感を感じました。尊敬できる人たちと思えないのに、私はその人たちより劣っているのだと感じたのだと思います。それまでの私は、学生であるだけで良く、優越感を感じている部分があったからかもしれません。傲慢(ごうまん)な思いが潜(ひそ)んでいたのでしょう。それから何でも人と比べて自分を卑下するようになりました。そして理想の自分を追いかけるようになりました。自分には合わない大きなものさしで自分をチェックし、劣等感を積み重ねていきました。
色んな人の、自分にはない優れたところを羨(うらや)ましがるのですから切りがありません。その矛盾に気が付くわけもなく、またこの時、決して自分と同じか、より出来ない人には目が行っていないのです。自分の存在価値を見つけられず、こんな私が娘を産んで子孫を残したのは、まちがいだったとさえ思って、死にたいほど後悔した事もありました。良い母、良い主婦が目標になっていました。子どもをちゃんと育てなければと思い込んでいました。振り返れば、少し年上の友達のお母さんとは仲良くしてもらっていたし、劣等感を感じることもなかったのに。あまり自覚出来ていませんでしたが、気を許せる人とは普通に付き合えていたようにも思います。
無理な引っ越しから 抑うつ(抑うつ神経症)へ?
この頃、もう少し広いマンションに住み替えることを決めました。ひそかに新しい場所で好ましい付き合いが出来るのではとの思いもありました。次の年の8月に入居なのに不景気を心配した主人は2月の売却を決め、4歳前と1歳半の娘がいての半年に2回の引っ越しをすることなりました。短期間なので親戚の古い借家の2階に住みました。ある時、下の部屋の人から「足音をもう少し静かに」と言われ、初めての経験で、きつく言われたわけではないのに凄い恐怖を感じました。が、1歳半の幼児は歩いても走っても同じパタパタでした。
8月に新居に移り嬉しかったのですが、やはり同年代の遊び仲間には苦手な人がいて、今ならさびしくても付き合わなかったら良いと思えるのですが、その時も何故かまたなんとか付き合わなければと思いこみました。11月になり長女の幼稚園を決めてホッとした頃、(決めた幼稚園も自分の理想に近い自由保育の園を選び、マンションの他の子供たちとは別でした)、子どものブランコを押していたら、とても嫌な感情に気付きました。不安というか暗い気持ちでした。それからの事は正確に覚えていないのですが、長女の幼稚園バスの送り迎えが一緒のお母さんにも劣等感を感じたりして、ある時不安で身の置き所がないような感覚になり、自分はどうなってしまったんだろう、気が狂ってしまうのかと自分では持ちこえられなくなり、母に電話し、父のかかりつけ医に紹介してもらった病院の精神科に行きました。
先生は「軽い抑うつ状態です、お薬を飲んでゆっくりしなさい」とやさしく言われましたが、ゆっくりした気持ちになれないからしんどいのにと思いました。そこは遠かったので、近くの医院を紹介して貰いましたが、そこはお薬をたくさん出されるだけで、かえって体調を崩し、長女の送り迎えも大変になり、他の子と一緒の近くの幼稚園に転園させました。申し訳なかったと思っていますが、大きくなってあやまったら、あんまり覚えていないとのことでした。この間、余りに苦しくて細かいことを覚えていないのですが、ひどく不調で実家で世話になった時以外は出来る範囲で家事もやっていたのだと後々気づきました。
森田療法との出会い、自助組織「生活の発見会」への入会と集談会への参加
この頃、自分は何が好きで何が得意なのかもわからなくなり、全てゼロになってしまった気持でした。ある時、指圧の先生のお宅の廊下に武者小路実篤の「生きるなり、死ぬるまで生きるなり」という色紙があり、「ただ生きていくだけ、あっ!これなら私でも生きられるかも」と思いました。それまでの私は、人生は何かを成し遂げなければならない、価値のあるものでないと意味がないと思っていたからです。
森田療法を知ったきっかけは、マンションの知り合いから教えて貰った青木薫久先生の森田療法関係図書「心配症をなおす本」で、そういえば、私は対人緊張が強いんだなあと思いました、その頃の自分は、抑うつ状態で、森田療法に合うのかどうかと思いましたが、自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)に入会し、苦しくて動けない時などは、生活の発見誌(自助組織生活の発見会の月間誌)の体験記や森田療法の本を貪(むさぼ)るように読んで、何とか暮らしていました。以前、日曜日に開催されていたU集談会(森田療法を学習し体験交流する場)に初参加し、症状や思いを話すことができ、その後、色々助言を頂き、参加の皆さんに受け入れて頂きました。
2歳違いの次女が入園する頃には、抑うつ状態からは回復し、父母会でバザー委員なら出来そうと思い、隣りに座っていた感じの良さそうな人に声をかけ一緒にすることになりました。その時の気持ちは森田療法で言う「迷ったら一歩前に」で、そしてその1年は幼稚園仲間の親子で楽しく過ごせていました。
東京への転勤と新生活のスタート(森田療法と共に変わり始めた自分)
次の年に夫の東京転勤が決まり横浜に転居しました。次女が転入した幼稚園では、初日に偶然会ったお互い転入者同士で、私とは真逆のようなお母さんと子供共々仲良くなり、以後家族ぐるみで信頼できる付き合いができ、またタイプの違う伸びやかで積極的な人との付き合いで学ぶことも多かったです。でも森田療法を学んできていて「自分は自分」と少しずつ思えるようになっていたのか、比較して自分を卑下することは減っていました。しばらくしてY女性集談会(森田療法を学習し体験交流する場)に参加し、その頃までに学んできたことは、人との付き合いは心から付き合わないといけない思っていましたが、お稽古などで、その場だけで話せるだけでも良い、また、10人の人がいて10人から好かれることはないけれど、10人全員から嫌われることもないとか、自分のかたい思い込みに気付くことが出来ました。
また、その頃の私は、自分は人付き合いが苦手だからパソコンに向かうような仕事を見つけたいと思っていましたが、代表幹事の方からは「結婚式場の花嫁さんの付き添いをする仕事とか向いていそう」と言われ、びっくりして自分の認識と人からの認識の違いに驚きました。他の先輩からも生まれ持った性格をうらやましいと言われたことがあり、その頃の私は、何事も努力して身につけたもの以外価値は無いと思い込んでいたので驚きました。今なら理解できます。
けれど一方、参観や懇談会から帰ってくると、何か不全感か不快な気持ちが頭の中でエンドレステープのように回り、なかなか動き出せないこともありました。のちに子供の様子を見ることができれば良しとすると教わりました。挨拶をしようと思って声を出したつもりでも、実際は声が小さく相手には伝わらないで、無視されたように感じたりもしていました。これも相手の行動はどうすることもできないと教わりました。
娘たちが大阪の時から入団していたガールスカウトを横浜でも続け、そこの人間関係からも色んな事実を学びました。能力と人格がそろい、長になってほしいのにならない人、そうでないのに長になりたがる人、良識の団体だと思うのに、のけ者を作る人。スカウト活動にたけているのに厳しすぎるリーダー。私は自分には子供たちをしっかり育てる責任があると思い込んでいて、良い環境に子供を置かなければと思っていましたが、子供は色んな人に巡り合い、自ら学んでいくのだと知りました。自助組織「生活の発見会」では、子供を前から引っ張るのではなく、後から付いていきなさい、その子の育つ力に任せなさいと教わりました。
再び大阪へ 森田療法を少しずつ学んだ事実
~過去は済んだこと、未来はあるけど決まっていない、あるのは現在だけ~
5年後、再び主人が転勤になり大阪に戻ってきました。中学受験をするつもりだった長女を振り回す結果になりました。志望校から選びなおし通った学校には合わず、公立に編入しました。長女の反抗期はなかなか手ごわく、まだ育てるのは私の責任だと思っていた私は、子供と真正面から向きあっていました。娘は環境の大きな変化に夢中で対応していたのでしょう。のちに集談会(森田療法を学習し体験交流する場)で、娘とぶつかった時はとにかくその場から離れて、他の事に自分を向けることと教わりました。高校は難関校に行かず、無理のないところを選びましたが、やがて不登校になりました。その結果、1年留年してから卒業し大学に入学しましたが、その後、作業療法士の資格を取り仕事をしています。現在、娘の夫の病気の事があり、私は先行きの心配で不安にまみれそうになりましたが、生活の発見会顧問である山中和己先生の言葉から、過去は済んだこと、未来はあるけど決まっていない、あるのは現在だけと学び、不安に思うことが本当に減りました。決まっていないことへの余計な心配から離れ、持ちこたえることが出来ています。
完全欲がとにかく強く「ありえない完全」にとらわれ、足りないところに目が行き、足りないところしか見えず、足りているところには目が行かないで、自己否定におちいる自分であることを知りました。どんなに人の事を羨ましく思っても、その人の人生を歩むことは出来ず、自分は自分の目の前にあるレールを進むことしかできない。自分の道を歩むことだと思いました。自分に合っていない高い理想を求め現在の自分を否定し続けるのではなく、不完全な自分が出来る範囲のことをやっている事実を認める、そして「仕方なし」でやっていくことだと思います。しかし、頭ではわかっていても、しんどい時は山中先生の本の題名通り「このままの私ですべてよし」と唱(とな)えます。
また、私にも数人ですが、心から楽に付き合えると思う友がいるし、そうでない人には、今でも誘ってもらっても緊張することがあります。寂しい気もしますが、私にはこれが合ってるのかなと思っています。
片付けが苦手であることに気付き、劣等感を持ってきましたが、全体的に見るとお料理は好きで得意。片付けでどう処理しようかと迷って嫌になりますが、料理をしているときは迷いなく動いている自分に気付きました。
ひどい時は自信が全く無くなり、全ての事を何を基準に判断すれば良いか分からなくなり、他の人に決めてもらいたい気持ちでした。失敗するのが恐かったのだと思います。やがて事実を知り自覚を深め、少しずつ自分の思い、判断に沿って生きられるようになり、間違いがあっても責任は自分で取ると思えるようになりました。それに従って喜び、怒り、感動を素直に感じるようになったように思います。
最近のこと
森田療法の学びを続け、自分なりに暮らせるようになったつもりでしたが、2005年頃から、90歳前の母は兄夫婦との同居が難しくなり、月に1週間ほど我が家に来ることになりました。段々日数が増えていき、その上、慣れない私は母にいらつき、そんな自分を責めました。また兄夫婦と良く話し合わずに始めたので、余り感謝されず、送り迎えも気まずく、2年ほどでダウンしてしまい、20年ぶりに抑うつ状態になりました。以前の経験と森田を学んできたことと、服薬で長引かずに回復しましたが。
その後は、母に介護施設に入居してもらい、義姉と協力し、週に1回通い、2回の骨折入院時は、1日置きに通い、10年余りが経ち母を見送りました。自分の出来る範囲のことを一生懸命したので、後悔はありませんでしたが、その間に娘2人の結婚、5人の孫の出産、育児の手伝い、その後のコロナ期間と続き、少々くたびれている現在です。そのせいか自己否定がしばしば現れ、不快な気分が居座りますが、それでもジムで泳げば無心になり、孫が来れば楽しく、疲れた気持ちは流れ、何とか日々過ごせてはいます。
もう少し気持ちが回復するのか、このままなのか分かりませんが、森田療法から離れず、学び続けたいと思っています。
山中先生、Dさんをはじめ、平日ブロックの諸先輩から多くを教えて頂き、また集談会(森田療法を学習し体験交流する場)の仲間と共に森田療法を学べることに感謝しています。
NPO法人生活の発見会は、医療機関でないため、薬を使わず根本的に神経症(パニック・社交不安・強迫・不安症など)に対処する「森田療法」が学習できる自助組織です。
全国120の森田療法協力医と連携し、神経症でお悩みの方を支援しています。
以下動画では、森田療法について詳しく解説しているので、ぜひご覧ください。
和田秀樹先生のYouTubeチャンネルで当コラムを監修している「生活の発見会」が取り上げられました。