中卒・高校(夜間)・大学(早稲田夜間)・大手上場企業・松蔭大学客員教授 数々の人生の局面を「森田療法」と「吉田松陰」で克服 吉田松陰研究家(元松蔭大学客員教授) 長谷川勤
森田療法と吉田松陰と共に
森田療法に出会ったのが三十七歳の時でしたので、丁度、人生の半分が森田療法と共に生きたことになります。また不安障害(神経症)の発症が二十六歳の時ですから、半世紀近く不安障害(神経症)と共に生きてきた私の人生になります。
経済的理由から高校進学が出来なかった私は、中卒で実社会に出た。高校、大学と夜間で学んで挽回した。自力で突破した誇りや、大学では学部を代表する碩学の恩師の下でのゼミで、精一杯勉強し、卒業後民間会社に就職した。闘志満々の営業マンとして実績も上がるに従い、最も困難な得意先担当に抜擢され、その仕事は困難を極めて悪戦苦闘の日々が続いた。そんな時のある日に突然心臓が破裂するかのような体験(パニック障害<パニック症>)をし、本当にいても立ってもいられない不安の状態となった。いわれのない不安・恐怖感に襲われ続けたが、今にして振り返れば「高良先生の言う適応不安の状態」が続いていたのだった。多くの人が、嫌な不安感を取り除くための努力をするように、私も同様にそれをして、森田療法でいう「精神交互作用」を繰り返し、「不安障害(神経症)」となって外出恐怖、乗り物恐怖、常住不安状態の毎日となった。しかし、原因が分らず対処方法も解らない悶々とする状態が続き、近隣の精神科や大学病院に通院するも、好転せずに無念の十年の歳月が流れた。
森田療法との運命的出会い!と「ドラスティック」な生活改善に取り組み
そして書店で見つけた森田療法関係図書「私はノイローゼに勝った」を読んだことが森田療法との出会いとなった。その時三十七歳、すぐに森田療法センターがある慈恵医大の受診をし、自助組織「生活の発見会」で勉強して治して下さいとの医師の指示を受けた。今、手元に「発見会の入会金受領証」があるが、昭和五十九年二月二十九日の日付となっている。この日から、「不安症(全般性不安障害)(神経症)」が発症して以来、出会いまでの悪戦苦闘の十年間を取り戻すべく、ダムが堰を切ったように森田療法関連書を貪るように読んで、すさまじい勉強が始まった。
自分で「すさまじい勉強」とは、大それた表現でありますが、決して誇張ではありません。それは「自分の全人生を賭けて取り組んだ勉強」であったと思い返されます。仕事中と睡眠、入浴時を除く時間は全て森田療法関係図書の読書に充て、通勤途上の電車内、食事中も左手には森田療法の本があった。この頃はまだ解らなかったが、森田正馬(まさたけ/しょうま)の創始した森田療法の普及に尽力した水谷啓二先生のいう「森田的生活道」の追求が始まったと云って良いかと思い返されます。常住不安感を持ちながら、それまでの森田療法でいう「気分本意」の生活を改め、家庭人としても為すべきことに取り組み始め、妻より先に起床してお湯を沸かし「お茶をいれ、先祖にお茶をあげて」から起床の声かけをはじめた。それまでは、一度もしなかった行動です。
毎月の発見誌(自助組織「生活の発見会」発刊の月刊誌)は到着日には精読して必ず読了した。集談会(森田療法の学習と体験交流の場)には助言を求めるメモを持参して毎月、全て出席した。治りたい一心で、精魂込めての読書はハイペースで毎月三冊以上読破した。集談会の先輩方から「トーンが髙すぎる」と再三注意を促される程でした。
森田療法に学び、毎日を丁寧に精一杯継続して努力すれば「やがて私にも春が来る」!
石の上にも三年という言葉がある。森田療法の勉強を続けていると、森田療法の目指すものが段々と理解出来て生活の改善は少しずつ進んだ。
毎月の実践課題は改善の進み具合に合わせて計画を立て、殆どが実行出来た。相変わらず不安感は心の奥底で燻り続けているが、間違いなく改善の方向に向かっているとの自覚が出来て来つつあった。その頃は「十年掛けてこのようになったのだから、十年後までには取り戻したい」と願っていたように思う。山本周五郎の作品「長い坂」を思い出しながら、毎日を丁寧に精一杯継続して努力していけば「やがて私にも春が来る」と願いながらの「読書と実践の毎日」であった。
以上が、私の森田療法と出会ってからの「ドラスティック」な生活改善に取り組んだ毎日でした。今にして思うと「よくやった!」と自分を褒めながら振り返れます。ただし、不安や苦しみがなくなったわけではありません。乗り物恐怖の後遺症は、十五年通った大学の片道の通勤時間が三時間近くかかりますので、そこは真剣勝負となります。これを書いている前日に、大学の勤務が終了となり、関係者への挨拶を済ませて達成感を味わいながらの帰宅でした。その間、「人身事故」に遭遇して電車内に閉じ込められたことも何度かありましたが、「神経症で命を落とした人はいない」、私以外でも苦労している人がいるに違いないなどと考えながら「いつも鞄に入っている「森田療法関連書」を読みながら耐え抜いたことも再三でした」。
人生で三度の危機に遭遇
「人生で三度の危機」に遭遇するという。私も振り返ればその通りと当てはまることがあります。
最初の危機は大学進学を目指しての進学校に編入直後の試験で、得意だった英語が「赤点」となり再試験を要すとの判定でした。此の時の屈辱感と苦悩は、いまだに鮮明に覚えています。夜間高校ですから、勤務先の仕事を終了すると登校して勉強、帰宅して再試験の徹夜勉強で「一睡もせずに勉強」を二日繰り返した。そして辛うじて追試験を突破出来たときは、倒れ込むように睡眠を貪ったものでした。十八歳の時の辛い経験ですが、これを突破してから、受験科目の一つ「日本史」を懸命に勉強した。卒業時に入試をモデルとした試験をしたらで全校トップの成績がとれた。その自信からか大学の入試も楽に回答できた。
私の高校卒業時は二十歳、成人式にはまだ高校生での出席でした。浪人をしないと決めていたので、東京都の公務員試験で合格を勝ち取っていた。大学の合格発表確認と同時に合格辞退届けを出した。この編入直後の英語の追試突破の勉強は、森田療法の創始者、森田正馬先生の経験された「必死必生」の体験を思い出すほどに、私の人生の一大転機となったと思う。
その奮戦中で、大学入試で連日不眠不休と言うほどに勉強を続けたら、朝目覚めても起き出す気力が湧かない状態になった。疲れが蓄積しての過労状態となったのである。当時は住み込みで「牛乳配達」のアルバイト、早朝に起きての仕事でしたが、目が開いても起きられない。やむなく事情を話して「群馬の実家」に帰り、一週間体を横たえる休養生活をした。父親からは、いくら勉強したって「健康を害したら何にもならない」ときつく叱られた。
しかし、受験勉強だからやめるわけにはいかず、ペースを落して半年間をすごし、合格を勝ち取った。入学金の準備貯蓄が少し足りないので、実家から「祝い金」として援助して貰った。この合格電報を打ったとき、実家に届けてくれた方が、中学時代の同級生の父親だった。中卒で田舎を出て、五年後の合格電報に驚きながら届けてくれ、父親としばし語り合ったとのことでした。その四年後、今度は教員免許取得の為「教育実習」に故郷の出身中学に戻ったときに、中卒で故郷を出て行ったのに九年経過して「大学生の教育実習」ということから、村では大変評判になって、父親が喜んだとのことでした。この教育実習中に隣村の同級生で、体育教師となって間もない「星野富弘」さんが、大怪我をしている。私の実習日誌にそのことが記されている。この教育実習では、普段勉強しない学生もよく勉強したことから、試験の結果が良好で、翌年の卒業式を前に中学校長から、田舎を出てから大学を卒業するまで、どのように東京で勉学の日々を送ったか「体験談」を卒業生に語って欲しいと依頼された。
このように書くと、順風満帆の学業生活を歩んでいるようだが、実際は悪戦苦闘の毎日です。森田療法の表現では「向上発展欲」のままに時間に追われ続ける毎日ということになるのでしょう。こうして、大学は上限の単位を修得して卒業要件には全く心配が無く卒業した。
二度目の危機は不安障害(神経症)の経験
二度目の危機が不安障害(神経症)経験である。森田療法に出会うまで言い得ぬ辛酸をなめたが、発症から十年目にして運良く森田療法に出会えて懸命に勉強したお陰で元気回復が成ったことは最初に記したとおりです。その喜びを「慈恵医大で初診の立松先生」と「辻村先生」に「御礼報告の手紙」を出した。三日後には「嬉しい手紙を拝見して喜んでいますと」、ほぼ同じ文意の返信を頂いた。森田療法の創始者森田正馬(しょうま、まさたけ)先生も「完全に治らなくても、見通しがついたら、治りました」と報告することを勧めているので、それに従ったのです。ですからそれ以降は再発の報告が出来なくなることとなって、森田療法の学習はさらに自分の身についた状態にしなければなりません。森田療法が「生涯学習」といわれるのを、私はこんな形で続けて行くことになったのであります。元気になるにしたがって、集談会(森田療法を学習し体験交流する場)への出席の態度も、自分の症状改善する願いは、あとから集談会に来られる方々の為に、自分の体験を語るように変化して行った。森田療法に出会った頃のような「がむしゃら」な勉強はしなくなり、心の余裕をもって集談会を皆で楽しもうというような心境で出席を続けています。同時に、支部委員となって他の集談会への「派遣講話」(森田療法を学び症状が回復した経験談)の機会が出てきました。今、これまでの派遣講話のレジュメはUSBに全て保存してあり、どの集談会で何をかたったかが解るようになっています。遠距離では「福井一泊学習会」「仙台合同学習会」に招かれています。当然に派遣講話を行うには、予習を十分にやらないと「語る内容」が伝わりません。私の場合は、一週間から一ヶ月前に「レジュメ」を作成して、窓口を務める担当の方に送信します。そうして、当日の直近には繰り返して予習をします。ですから、講話が多くの勉強の機会となります。最初は拙い内容でしたが、段々と「今度はどう語ろうか」に意識が向いてきます。派遣講話は私にとって森田療法‘(理論)学習を深める良い機会になっています。
松蔭大学から招かれた三度目の危機
そうして三度目の危機が「松蔭大学から招かれた」時です。教育実習程度しか教壇に立った経験がなく、難解な吉田松陰の人物研究が出来るか。ここで森田の勉強が生きた。「迷ったら前へ」です。可能性があるから迷うのです。先輩からも「何故そんなに難しい人物研究をやっているの?」と何度か聴かれました。大学からの給与の大半は松陰研究書籍の購入に充てたので、我が家の書庫には数千冊もの本があり、家中が「ところせまし」の状態で本だらけになっています。松陰全集は文語体で書かれてあり漢文でも書かれているので、読解には苦労した。最後には主要文稿をパソコンに打ち込み、ルビをふって、文中の難語説明を施して、学生の教材にした。これは大変な労力が要ったけれど、貴重な勉強となりました。松下村塾で松陰は、塾生に対して「教えることは出来ないが、共に学ぶことは出来る。だから共に勉学に励もう」と一人一人に呼びかけていますので、私もそれに倣ったのでした。
人前で語ることを苦手としてきた私には、「森田療法の勉強のお陰」でその難題を突破できた。苦しかった極めつけはNHKの「ラジオ歴史講座」の仕事で、全国放送の為に、十四万字のテキストを書くことだった。放送収録の日程が決まっており、それに間に合うように書上げなければならない。これは困難を極めて、眠る余裕がなく編集者からお尻を叩かれて急がされる毎日でした。書いている最中に、前に提出した文稿が不十分なので、訂正・書き直しの指示がくる。時間に追われ続けた「地獄の半年間」でした。不眠症に陥り、眠る余裕もない奇妙な苦闘状態が続きましたが、沢山の仲間からも多くの応援を頂き完遂できた。ラジオ放送は好評で、吉田松陰の直系の御子孫は再放送を含めて全て聴いてくれたとのことで、お礼状を出したところ「非常に楽しかった」と返信が届き、今もお宝のように保管してある。珍しいことに、再放送だけでなく再々放送まで流してくれたのでした。
このことがあってから、講演や講座の依頼が矢継ぎ早に舞い込みました。大学の副学長から「記録を残しておくように」と指示があり、エクセルに打ち込んであるが、十五年間で「二百二十回」もの講演・講座をこなした。自分の講演や出演が新聞に掲載されることも何度かあり、そのたびに不十分だった箇所を思い出しては反省したことでした。ふるさとの母校にも三度の教育講演を行い、出身の群馬県からも依頼をうけて大会場での講演も出来ました。
大学でも地域の講演会(厚木市)の機会があると、担当教授から「吉田松陰」を語ってくれと依頼され、通算で五回ほど行いました。こんな毎日から、友人仲間から私のあだ名は「松陰さん」といつしか呼ばれるようになっていた。
最後に、私が学んだ「森田療法」と「吉田松陰」から得たものは、「目標と使命感」をもって勉強に取り組めば必ずそれなりの成果が得られ、また多くの教えを学び取ることが出来るということです。
吉田松陰の有名な言葉である、「志を立てて以て万事の源と為す」や「学は人たる所以を学ぶ為り」、あるいは「万巻の書を読むに非(あら)ざるよりは、寧(いず)んぞ千秋の人とならん」、そして日大の創立者となった山田顕義には「立志は特異を尚(たっと)ぶ」」という立志の詩(志は人と同じでなく、自分で独自のものを立てよ)等は人生の達人が発した貴重な応援歌でもあります。
森田先生の「雪の日や、あれも人の子樽拾い」も自分にばかり関心を向けずに、雪の中での樽拾いに「寒い中で大変だろう」という思いがわき上がってくるものだなど、勉強していると、人としての当たり前のことを、目的を正しくもって行動を促す教えに出会います。
森田先生も吉田松陰も波瀾万丈の人生を送る中で、「知行合一」の教えを、大上段に被らず、身近で実践しつつ、自然な形で行動の必要性を教え諭し、人間的成長を願っているのが解ります。
とりわけ、森田先生は健康に恵まれなかった中で、多くの神経質者に救いの手を差し伸べてくれました。森田療法の教えに出会えた人は、間違いなく「幸せ者」です。「法悦」という言葉は、人生における難問が氷解したときに、心の内から湧き出る喜びという意味だそうです。何度もの法悦を味わえる人、苦難を乗り越えた喜びの中に「達成感」や「納得感」、「充実感」が貴重なものとして味わえるのではないかと思う。私の大学院の指導教授に「幼時教育で大切なものは何か」と一献を傾けながら訪ねたことがある。先生は即座に「世界の偉人伝を沢山読むこと」と返答された。確かに偉人伝は、奮闘努力のすえに勝ち取った人類の宝を得たことが綴られている。こうした奮闘努力を避けつつ人生の勝利者に成りたいと勝手に願っているのが、神経質の人達にあるように思います。
人生に苦難はつきものです。それを突破して行くには気力と努力の行動が要求されます。困難から逃げると問題解決は出来ない。苦しみながらも粘り強く前進して乗り越えて行く中で、人は成長していくのだ。自信というものは、挑戦し、成功体験の中から生まれてくるものだと思う。神経症も「苦しみ抜けば救われる」と教えます。辻村先生も禅語の「断崖に身を翻して読みがえる」を引用しています。「人生はいろいろ」で、人それぞれに、「順境と逆境」、「苦と楽」、「幸運と悲運」、「感謝と失望」、「希望と挫折」あるは「泣き笑い」などの両側面があります。人生における様々な局面で、困難に遭遇してそれらを乗り越える経験をして「現在の自分」が在るのです。それが喜びであります。私達はこうした「乗り越える力」を森田療法から学んだはずです。「人は順境にある時は、怠けやすく、逆境にあって生死を賭けて生き抜く努力」をするという、吉田松陰の『孟子』解釈の教えを思い出させます。
幕末に不自由な境遇で日本の行く末を憂慮しつつ、活路を模索しながら、松下村塾で人材育成を梃子として独立日本を願った吉田松陰の教育、それにかけた情熱と努力に打ち込んだ姿と重なります。
私の場合は、社会からの落ちこぼれ的な人生を歩むのはゴメンだという人生観があったのだと思います。ことばを変えて言えば「劣等感」克服のために、悪戦苦闘した人生であったのかも知れません。
人生の恩師ともいえる大学(母校)の総長室にいらした先生から「中卒からのなにくそ人生」と題して自分を振り返る「自分史」を書くよう勧められています。中卒で就職した大手電機メーカーへのご縁は、私の実家に隣接した方が紹介の労をとってくれたので、帰省の度にお土産を用意して御礼訪問を繰り返して近況報告のようなことが続いた。紹介してくれた先が、その電機メーカーの「人事部長」で、社員が二千二百人もいる工場でした。この一族のかたに「日本製鉄の父」といわれる方がおり、明治時代半ばに「勅任技師長」という大変な名誉ある仕事をされた方で、退任後、競争原理を導入して「品質と生産性」向上のために「日本鋼管」というライバル会社を創設した方がおります。その電機メーカーを、自分の進学希望への挑戦という事情で退職してしまったので、後々まで私の心の重荷になり続けていました。そして退職して四十四年後、大学を卒業して就職した会社を定年まで勤め上げたとき、御礼とお詫びをかねてご挨拶に伺った。既に「人事部長」は故人となられていたが、ご子息の方が応対して下さり、私の報告に対して喜んでくれ、なおかつ「墓参まで案内」してくれた。退職してから半世紀近い四十四年もの歳月が経過していた。JR鶴見駅前の「総持寺」にお墓がありました。私のこれまでの生涯の多くを背負って来た自責の念が解消した日でした。手鎖で拘束されていた人の解放の喜ぶ姿のようにして、姉兄が生誕した戦前の「川崎市幸区」の我が家があった所を、戦前の住居表示を市役所に調べて貰って訪ね、喜ぶおもいのままに有名な地酒を飲みながら歓迎してくれた人事部長のご子息に感謝したことでした。
その訪問でわかったことは、高校、大学ともに私と同じ大先輩だったことが解り、人生の不思議さを感じたことでした。全国的にも有名な進学校、そして日本有数の人気を誇る大学でしたが、全日制と大学の学部が違うだけの全く同じ学校でありました。
こうして七十五歳になる今、振り返ってみると人生を投げやりになってはいけない。人生「諦める」前に、可能な限りの最善を尽くすことが大切なのだと思われます。
人は「生きる努力」を放棄したとき、心の奥底にいる「もう一人の自分」が警告を発してくれます。「それがお前の本心から出た人生観なのか」と厳しく問い詰めるに違いありません。森田療法には「自覚療法」の側面があります。本当の自分を生きると言うことは、時に辛い場面に出会います。その時に「どう考えるか」が人生の選択の分岐点になります。
水谷啓二先生が「自分の本心を偽らない生き方」を説いています。辛くとも、苦しくとも、己の心の命ずることに従う生き方は、まさしく「あるがまま」の生き方であります。森田療法の言う向上発展欲の強い神経質者の生きる道には「神経質者特有の難題」が待ち受けています。それを避けて生きることは、神経質者のとるべき人生の選択が誤りであることは論を俟ちません。
私達は、不安障害(神経症)というやっかいな難物に立ちはだかられて前進はおろか、難渋して苦悩を重ねます。それは、森田療法を深く学んだ人には「自ら招いた障壁」ということが解るはずです。そうした人生の失敗が、「不安障害(神経症)」を自分の内から生み出している「からくり」を自己洞察出来るようになったら、「不安障害(神経症)」の再発は防止出来るように思います。その時に森田先生のいう「神経質の根治」が成就するのだろうと、そんなように考えられます。苦しみや悩みの無い人生は空想上の人生観です。「かくありたい人生」から「かくある人生」に人生観の大転換が出来たとき、神経症は雲散霧消して、困難にも積極的に立ち向かって解決していく、力強い「自分」が現出するのだと思います。そこには、苦労を苦労と受止めずに、自分から解決策を見出す願いのままに新たな人生が現出し、多くの経験値の蓄積した人生観となって力強いものとなるに違いない。森田療法は、こうした自分を知りながら建設的な人生航路を見出せと激励してくれるものと思われますが、皆様はどのように受止めてくれるのでしょうか。私は、森田療法に救われた法悦を少し味わうことが出来たように思い返されます。いろいろな集談会へ派遣講話の機会の締めくくりの言葉は「森田先生、森田療法に感謝」、そしてこうした感謝に多くの方々が実感を伴って受止めていただけたなら、それは將に「法悦」であります。三年前、個人で土佐旅行をして森田先生の墓前で感謝の合掌が出来たことは、生涯忘れることの出来ない思い出であります。森田療法の教えは真人間への「気づき」をさせてくれる、「素晴らしい人生論」であると日々感謝しながら思い返しては出逢えた喜びをかみしめています。このような喜びを伴って生きることの出来る私は、「幸せ者」だと言い聞かせずにはおれません。素晴らしき森田的人生に「万歳三唱」の思いで、「生涯森田」を皆さんと共に歩んでいきたいのが私の偽らざる心であります。
最後に、私が森田療法を学んだ中で「人の為に尽くす活動」を紹介して擱筆したいと思います。早稲田大学社会科学部を卒業して二十五年目に、恩師や先輩から「社会科学部の後輩の為に奨学金を創設するので、活動に参加して欲しい連絡を受けました。一九九五年の年賀状でした。ここで「森田先生が、人からは多少変に思われようが、進んで人の為に尽くせ」と語っていることの実践と心得て参加しました。
こうした善意の活動は、自助組織「生活の発見会」主催の森田療法学習セミナー「基準型学習」にも採り入れられていますので、私は不安ながら全国の同期生に呼びかける「社会科学部卒業生奨学金」活動の責任者を引き受けました。
多くの苦労がありましたが、雪だるまを大きく創るように、母校愛で寄付をしてくれる仲間に助けられて二十五年経過、今では一億円近くの「卒業生奨学金ファンド」となり、勉学意欲を持ちながら、経済的理由で早稲田に学べない人達を応援しています。
ファンドが一千万円を超したとき、第一号の奨学生が出ました。その学生は、家業の倒産から学業継続を断念しかけた時に、私達の創設した奨学金の存在を知って、学部事務局に相談した結果、この奨学金の給付を受けて学業を続けて、無事卒業できたのでありました。贈呈式の時には母親も出席され、涙ながらに私達に御礼の言葉を語りました。それを聴いた私達が思わず「もらい泣き」する場面がありました。当時は責任者として代表だったので、ことさら感激したことでした。
私自身は在学中、奨学金にお世話にならず、自力で卒業しましたが、この贈呈式は生涯忘れられない感激でした。この活動はいまも続き、私も少額ながら毎年寄付を継続しています。この間に五十名が給付(一人当り四十万円)を受けました。この活動は大学全体にその活動の存在価値が高く評価されているとのことです。
森田療法の学習を必死に取り組んだ結果が、こうして「善意の奨学金活動」として年々、ファンドが成長しています。毎年、大学の総長名で拙宅に「感謝状」が届く度に、「森田の教え」を実践出来てよかったと思っています。將に、森田先生に感謝であります。