出会いはパニック症(パニック障害)からの回復への第一歩
(M.K・主婦)
私は、父は公務員、母は教員の堅実な家庭に育ちました。1歳半違いの妹がいます。家では親の言うことをよくきく大人しい子、外では人なつこく賑(にぎ)やかという子供でした。みんなに好かれていたいという気持ちが強かったように思います。
小学校高学年から胃がよく痛むようになり、中学のときに神経性胃炎と診断されました。高校生になると過敏性腸症候群の症状に振り回され、休み時間の度にトイレに通った時期もありました。症状が精神的なものからきているという自覚はあり、大学3年になって、この状態を何とかしたいと思い神経内科に通い始めました。いささか的外れな診療科目でしたが、優しい先生に症状を聞いて頂くだけで安心できたように思います。成長と共に自分に自信がついてきて、なんとなく体調は良くなっていきました。教員となったのを機に病院通いもやめ、25歳で結婚、26歳で退職、27歳で出産。以後、夫が失業したり流産したりといろいろありましたが、友人、知人に恵まれ、家族3人元気に楽しく暮らしていました。
バイク通勤ではじまった緊張と初めてのパニック障害(パニック症)
その後2週間だけ、小学校特別支援学級の非常勤講師の依頼を受けました。いきなり仕事と家事でフル回転になり大変でしたが、無事に任期を終えました。その後、別の学校からの依頼で、慣れないミニバイクでの通勤が始まりました。朝、ハンドルを握ると緊張で震えましたが「そのうち慣れる、大丈夫。」と自分に言い聞かせました。学校では緊張しっぱなしでした。帰りのバイクでも緊張、家でも時間に追われて焦りっぱなし。でも、家事で手を抜くのはいやでした。「すごいね」と言われる自分でいたかったのです。人によい評価を受けたい気持ちが強いのです。そうして、せいいっぱい頑張っての1週間目、一睡もできずに迎えた朝、パニック発作をおこしたのでした。
実は以前にも一度、過呼吸の発作をおこしたことがありました。急に呼吸が浅く速くなり、体が震え、立っていられなくなったのです。全身から汗が吹き出していました。そのときは発作が治まった後は、特に違和感もありませんでしたが、今回は違いました。胸のドキドキがいつまでも治まらず、体が強烈にだるく、力がはいりません。よろよろ歩いてかかりつけの内科へ行きました。話を聞いた医師は抗不安薬を1錠だけくれて、「様子をみるように」と言いました。血液検査では、リンパ球が正常値の半分しかなく、「ストレスです」とも言われました。ドキドキは2日位で治まったものの、あまり眠れず1週間後に再び発作をおこしました。もう内科では無理と思い心療内科へ。「軽いうつ病またはパニック症(パニック障害)」と診断され、1日3回の抗不安薬と睡眠薬を処方されました。「そのうち慣れる。大丈夫。」と自分に言い聞かせ、薬を飲みながら勤めていましたが、緊張は強まるばかり。朝は下痢してトイレ通い。吐き気は強まり、頭はくらくら。足元がフワフワして、首の上と下がつながっていない感じがしました。もう無理と、任期終了を機に仕事を辞めました。薬は医師の指示に従い、2~3ヶ月そのまま飲み続け、ひと月で断薬。不安と緊張が押し寄せ、かなりつらい思いをしました。その後も、いつも「いやなことが目前に迫っている気分」が続いていました。
パニック症と闘った日々と森田療法との出会い
その頃、大学生の息子が一人暮らしをしたいとアパートを探し始め、私の体調は急降下。自分が「空の巣症候群(からのすしょうこうぐん、子どもが自立し自分の役割が終わったと空虚感を感じること)」になるとは、思ってもいませんでしたし、そうなってしまっても、まだ認めたくありませんでした。一睡もできない日が増え、強い頭痛、首や肩の強烈なコリや吐き気に悩まされるようになりました。テレビの音声も変な音に聞こえました。いつもドキドキ緊張していて、電話やメールにもビクビク。テレビの恐ろしい映像やニュースで症状はさらに強くなり、ほんの小さなきっかけでパニックになりました。常にだるく疲れているのに、いてもたってもいられない、押し寄せるどうしょうもない空虚感。深い淵にかろうじて浮かんでいるような不安と身の置き所の無さ。強い孤独感。自分には生きている価値がないとも思いました。心療内科の医師に不信感を持っていた私は、漢方薬での治療を試みましたが、体調は改善しませんでした。食べられず、眠れず、体重も激減。仕方なく初めにかかったかかりつけ内科医に相談。そこで抗うつ薬、抗不安薬、睡眠薬、漢方薬による治療が始まりました。少しずつ良くなっていったのですが、医師が病気のためクリニックを閉院。インターネットで森田療法を取り入れているクリニックをみつけ、通院し始めました。
先生に治療と指導を受け、森田療法の本をたくさん読みました。不安でも症状があっても、やることをやろうと「1時間歩く」「家事を丁寧に」など小さな日課に取り組みました。薬もゆっくり減らしていきました。減らす度に理由の無い緊張、不眠や頭痛が強くなり、つらかったです。それでも「仕事に出たい」という気持ちが強くなり、先生には「森田療法で言う あるがまま ができていればなにをしてもいいんですけど、できてないから」と反対されましたが、パートに応募。採用され1週間後からの勤務が決まりました。ところが、その晩から不安で不安で薬を飲んでも眠れないのです。何も知らない仕事のことで頭はいっぱい。予期不安(発作がまた起こるのではないかという不安)を思いっきり育ててしまい、とうとうパートをキャンセル。「まだ早かったんだ」と自分に言い聞かせ、再び主婦業に気持ちを向けることにしました。
抑うつ症(抑うつ神経症)
体調も上向いてきた頃、隣人から学校給食のアルバイトに誘われました。以前やっていたので「これならできる」と週3回勤め始めました。やはり緊張は強く仕事の覚えも悪いながら、ノートに仕事の手順を書くなど工夫しました。薬なしでは眠れなくなり食欲もガタ落ちしましたが、なんとか冬休みに突入。ホッとできると思いきや、また不安が押し寄せてきたのです。何をしても仕事のことが頭から離れません。不安と緊張は膨らむ一方で、またまた眠れず食べられず体重激減。冬休みが明ける前に逃げるように辞めてしまい、そこからは完全に自信喪失して自己嫌悪。どうしょうもなく自分が情けなく、外へ出ることさえ怖くなってしまいました。私は自分をうつ病だとずっと思っていましたが、このとき初めて先生に「今のあなたは抑うつ症(抑うつ神経症)です」と言われたのでした。
基準型学習会(「生活の発見会」の森田療法を体系的に学習するセミナー)で得たもの
なんとか自分を立て直したくて自助組織「生活の発見会」に入会、集談会(森田療法を学習し体験交流する場)に参加するようになりました。集談会は、初めてのときから不安や緊張がほとんどありませんでした。ありのままの自分を出して受け入れられることで、安心できたのだと思います。先輩たちの体験を聞き今の様子をみて、自分も立ち直れるという希望を持ちました。悩みや苦しさを共感できる人たちといることは、それだけで心強くもありました。「だまされたと思って、とにかく1年続けてごらんなさい」と言われ、そうしてみようと思いました。
専業主婦に戻り、症状はありながらも、日々を丁寧に暮らすことをまた心がけるようになり、チラシまきのアルバイトも始めました。これさえも不安になり、減薬も進みましたがなかなか縁を切れずにいました。過去や今のいやなことがいつも頭の中を巡っていて、不安、緊張、不眠、頭痛などが続いていました。また、「考えて決める」という頭の使い方――例えば、スーパーで「何を買って何を作ろう」なんて考えるとギューッと緊張してしまい、トイレに駆け込んだりしていました。
基準型学習会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)にも参加し、だんだん「今の自分でいくしかない」という覚悟らしきものができて、身の丈(たけ)にあった小さな一歩を、「できた」と評価できるようになってきました。自分を理想にあてはめていく生き方をずっとしてきて、いきなり大転換とはいきませんが、大きく舵を切り始めています。症状がなくなったわけではありませんが不思議と断薬でき、病院にも行かなくなりました。
パニック症(パニック障害)、抑うつ症(抑うつ神経症)になって5年
パニック症(パニック障害)、抑うつ症(抑うつ神経症)になって5年近くが過ぎました。何とかしようと、もがいて転がり落ち、少し良くなっては落ち込むことを繰り返しました。抑うつ症(抑うつ神経症)の後に続く不安症(不安障害)は、彗星の尾のように残っています。自分が一人前であるという自信は無く、湧き出る不安も仕事に対する恐怖感も消えてはいません。でも、この不安をそのままにできることを重ね重ねて、自分を育てるしかないのだと思っています。私にとってはすごい進歩です、天がリハビリさせてくれていると思っています。集談会での役割も増えました。自分のいられる「場」を拡げ、不安があっても動けるという自信を育て、いつか人のなかで働けたらいいなと思っています。
自助組織「生活の発見会」との出会いは、本当の意味での回復への第一歩でした。基準型学習会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)講師の方々には、向かうべき方向を示す灯台を頂いたと思っています。