森田療法と行動で埒(らち)を開ける(S・Hさん・男性・会社員)

学生時代~不安症(不安障害)に悩まされ

私は幼い頃から何かが恐ろしく、得体のしれない漠然とした恐怖にいつも怯えていました。いつも恐怖が手を変え品を変え、攻めてきました。小学校に入ると思いのほか勉強やスポーツはできて、恐怖はありながらも概ね楽しく過ごしていました。

しかし、勉強やスポーツで良い成績とり模範的な行動をしていれば教師や同級生に好かれると味をしめた私は、「模範的なジブン」「周りより勝っているジブン」であれば他の人より優越できると「かくあるべし」を知らないうちに内在化していきました。また、中学受験に向けての受験勉強に特化した教育の中「よい成績を取り偏差値の高い受験校に合格することが正しいことで、そうでなくては間違っている」と、かくあるべしと己の高慢を大きく膨らませていきました。

そして第一志望の大学まで一貫校の中学の受験に合格しましたが、勉強や規則よりも、それに逆らうことが周囲から良い評価を得られるという英雄主義のような環境に一気に変わりました。かくあるべしと高慢さで自分を支えていた私は、それを捨てられずムキになり、後で分かったのですが軽度の発達障害もあったため、周囲から様々な嘲笑や嫌がらせを受けて、いさかいを起こしてしまいました。かくありたい私と実際の私とのギャップからジレンマに陥り、やりどころのない感情を持ち続け、怯えや怒りや憎しみでいつも警戒し、高校を出る頃にはひどく衰弱していました。

大学に進学する頃には、常にビクビクして神経を張り詰めていました。もはや教室にいることさえも辛く、講義に出るのも恐ろしくなり、学内のカウンセリングルームと精神科に通い始めた私は、「自分は精神病だから」と悪い意味で居直り、休学を繰り返すようになりました。かといって療養や治療に専念するわけでもなく、ゲームやインターネットに浸っていました。留年と休学と復学を繰り返すという状況が続き、結局は大学を中退することになりました。

ぶり返した死の恐怖~強迫性障害(強迫症)、不安症(不安障害)

休学を繰り返しながらも父の仕事を手伝っていた私は、そのまま父の下で働き始めました。大学の頃から父に資格を取ることを勧められていたので、こんな私でも働けるのかと喜々として働きました。

そんな中、3・11の東北の震災が起こり、後の悲観的・情緒的な報道で、自分もいずれ必ず死ぬという死の恐怖がぶり返しました。悩む中、無宗派のお坊さんとの出会いがあり、戒律を守ることや瞑想を教わり始めました。また東洋医学にも興味を持ち、鍼治療やツボ、薬膳の勉強などをして自分で試行錯誤していました。結果として、人並みに社会の中で最低限暮らせるようにはなりましたが、恐怖は取り除けませんでした。

また、明治文学や哲学の本を読みあさり、感傷的・刹那的な人生観の鋳型いがたに自分をはめ込むことで、強迫観念~強迫性障害(強迫症)の症状を徐々に起こしてしまいました。瞑想をして気持ちを落ち着けようとしても集中できず、頭の中に流れてくる言葉を打ち消すことに一日の大部分を使う羽目になってしまいました。

しかし、誰かに相談したら自分の脆弱性(ぜいじゃくせい)や依存性、症状を膨らませてしまうような気がして誰にも言えませんでした。疲弊して、生きるのも死ぬのも辛いという孤立の中にいました。

ただ、それでも仕事だけは続けなければ、一生症状や不安から逃げ続けてしまうことになると思い、仕事だけは通い続けました。

集談会(森田療法を学習し体験交流する場)との出会い

にっちもさっちもいかなくなった私は、大学時代に母に勧められていた森田療法を思い出し、森田療法関連図書をいくつか読んだ上で、一か八かの思いで集談会(森田療法を学習し体験交流する場)に出席しました。

自己紹介から淡々と会が進行していく様子を見て、「本当に辛い症状を克服されたのだろうか」「自分だけが特別に悪いのでは」と半信半疑のまま、何となく集談会に出席したりサボったりを繰り返していました。今にして思えば、集談会にきちんと毎回出席して、何かしら役割を引き受けた方が早く治ったかもしれませんが、当時は症状を相手にすることに必死で、周りを見る余裕がありませんでした。しかしメールで誘っていただき、徐々に出席する頻度は増えていきました。

また、症状に苦しんでいる時の仕事のやり方も教えていただきました。一番大事な仕事や期限が迫っている仕事を、面倒くさくても辛くても怖くても最初にやって、後は少し横になって休む、という方法です。幸い家族経営のため状況に恵まれていた私は、重要な仕事を終えると横になり、家に帰る途中に休んだりしながらも仕事を続けました。また強迫観念が止めどなく流れていても、会社の資金繰りを必死で考えたり現実的な思考を行うようにして、とにかく生活の流れを進ませました。

自助組織生活の発見会が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー基準型学習会へ

それからしばらくして、先輩会員から基準型学習会(自助組織生活の発見会が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)に通うことを勧めていただきました。最初は会場まで行くことさえも予期不安で恐ろしかったのですが、そこまで勧めてくださるということには何かあるのだろうなと思い、思い切って参加しました。

基準型学習会の日記指導では、私が悲嘆したりみっともない失敗をしても「そこからどのようにできるか」という森田療法に基づく建設的な助言や、悩みに寄り添った共感のコメントをもらい、心強い支えになりました。そして日記に「あれもこれも書こう」と日中に思っても、いざ書く時になれば「どうでもよいことだったな」と感じ(森田療法で言う“感情は流れる”、世の中の大抵のことは流れていくことであり、大した問題ではないことにも気づきました。

また受講者の発言を聞いていくうちに、気づきというものが深まっていきました。特に今でも思い出すのが、ある方の「私の症状は疾病利得なのでは」という発言でした。そこで私は、誰にでもある恐怖や不安を症状・病気ということにすることで、現実の日常生活や社会生活から逃避を重ねていることに気づきました。目から鱗が落ちるようでした。

それからは症状に逃げないように、仕事や日常生活を丁寧にするようになりました。不安は逃げるとより強くなって攻めてくるので、不安は棚上げして目の前のことを一つ一つ、頭と体は怯えながらも、今はこれだけとこなすように森田療法の教えを実践しました。

それから少し過ぎて、実家の犬がかなり弱っていることを知り、会いに行くと、目も見えないようで、周囲を嗅ぎまわりながらヨタヨタと歩き、私だと分かると腹を見せるのですが、横になるのも一苦労で息をするのがやっとのようでした。それを見た私は、誰にも見つからないように声を潜めて泣きました。よく見ると父の喉もしわが垂れ始めていますし、「こんなになるまで自分の症状にかまけて周囲を気にもかけず、自分の森田療法でいう“気分本位”に逃げ続けて」と自分のふがいなさに涙が止まりませんでした。

森田療法の基軸である“日常を丁寧に”

それからは、症状を相手にし続ける生活から何とか抜け出そうと、踏ん切りをつけようと決めました。

ある日、トイレの汚れを見て、こんなに汚かったのかと恥ずかしく思い磨きました。気付くと流し台も汚いのでキレイにすると、気持ちが流れていくのを感じました。それからは爪を切ったり顔を洗ったり、ご飯を食べたらすぐお皿をきちんと片づけたり、掃除や片付けなど、人として当たり前のことを、今・ここ・自分に集中し、できる事をできる時にやるという森田療法の教えを実践する生活をひたすら繰り返しました。

症状をそのままにしておくのは勇気がいることでしたが、森田療法で今まで多くの人が治ってきたのだからいっそ騙されてみるかと、とりあえず目の前のことを一つ一つビクビクハラハラしながらこなしていきました。不安は手招きをして、恐怖を恐怖するというループに何とか持ち込もうとしてきます。一進一退で駄目な日もあり、自分の弱さを惨めに感じることも多かったです。

不安障害(神経症)の元となった森田療法の「誤った認識」

私の誤った認識は、今ある生活や仕事をおろそかにして、不安症(不安障害)の症状を取ることに執着することで、かえって不安症(不安障害)の症状を大きくしていたことです。症状にとらわれることで、「不安症(不安障害)の症状のあるジブン」というのは肥大化していくように思えます。それによって実際の社会生活から逸脱して、観念の世界に入り込み、ますます不安症(不安障害)の症状を悪化させました。

また学生時代からちっぽけで弱い自分を見ないようにしていたため、自己の成長や他者への配慮よりも、自分を守るために頭の中でやりくりすることに必死で、周囲への批判や自己保身を自分の脳内で一人チャットのように繰り返していました。

今の自分の生活は、ひげを剃る・ご飯を食べる・ゴミを捨てる・仕事をする・風呂に入る・寝る、などやらなければならないことを一つ一つこなす森田療法の実践で、よどんでいた生活が流れ始めました。

不安症(不安障害)の症状は常につきまといますが、とりあえず目の前のことをやらなければ埒(らち)が開きませんし、生活も維持できません。頭や体が怯えても、不安でも怖くても、仕方なくでも、悩みや不安がありながらグズグズとやるべき仕事や生活世界に流されていく毎日です。

それから暗中模索の中で悩んだり右往左往しながら過ごしましたが、森田療法を学習する自助組織生活の発見会に参加し始めて2年ほど経った現在では、仕事や炊事・洗濯・掃除などの毎日の型は整えながら、趣味の歌や筋トレを続けて、服や髪型や肌のケアなどファッションにも気を遣いながら、人とのつながりを大切にして色々と楽しむように過ごしています。