社交不安障害(対人恐怖症)の私、夫とそして森田療法と共に (N.I ・女性・主婦)

私の子供時代

現在の家族構成は夫、小学3年生の⻑女、小学1年生の次女、3才の⻑男です。仕事はしていません。私の症状は衆前恐怖、あがり症(社交不安障害、対人恐怖症)です。人前で注目されている中で話すことが恐怖です。

私は1981年、埼玉県で生まれ、2人姉弟の長女で3つ年下の弟がいます。5才の時に父の転勤で栃木県に引っ越し、そして小学校に入学と同時に群馬県館林市に引っ越しました。父は短気で、すぐに手を上げる人だったので、いつも父の顔色をうかがっていました。

私は頑張っているつもりはなかったけれど、母親からは「頑張り屋さんだね」とよく言われていました。今思えば、いつしかそれが「頑張らなければならない、こうでなければならない」という思考が自然に植え付けられていったような気がします。 

小学生の頃の性格は、負けず嫌いで目立ちたがり屋で、人前で話すのが好きでした。人前で話して注目されるのは気持ちいいな、とさえ思っていました。そして、負けず嫌いな性格は今でも変わっていません。

小学5年生の時、仲の良かった3人の友達とクラスが私だけ別になりました。ずっと仲良くしていたかったけれど、いつしか無視されるようになりました。高学年の時は、特に仲の良い友達もいなかったので、つまらなかったです。

同級生からのいじめ

中学ではソフトテニス部に入りました。運動が好きで得意だった私は、1年生の時から3年生の大会に出ていました。そして部活の同級生とは仲良くやっていました。

私が1年生の時から気になっていたのは、毎年度、3年生の部⻑の悪口を他の3年生がよく言っていて、部⻑が泣いているのを2年間、目のあたりにしていました。

2年生の後半になって、私たち同級生の中から次の部⻑を決める時期になり、同級生の推薦で私が部⻑に選ばれました。その時は、皆とうまくいっているし、私は今までの部⻑みたいにはならないだろう、大丈夫だと思っていました。

しかし、部⻑になって1ヶ月。顧問の先生がテニスコートに来る前に、先生から練習メニューの指示を出されて、それを皆に伝えるのですが、皆から嫌な顔をされるようになりました。そして、指示した練習をしてくれなくなりました。ついには私の悪口を大きな声で言われるようになり、無視をされるようになりました。部室に行けば、ラケットやシューズがなくなっていたりしました。ダブルスも組んでくれないので、大会にも出られなくなり、3年生の途中で部活を辞めました。

その他にも、クラスの男子に1年生の時から2年間、言葉の暴力を受けていて、毎日が辛かったです。いじめられると分かっていても、それを理由に学校を休むことはありませんでした。親に相談しても軽く流されるだけで、絶望の日々でした。死にたいと思って遺書を書き、何度も手首にカッターを当てたり、死に方を考えたりしていました。

しかし、死ぬ勇気はなく、ちょうどこの頃に「中高生がいじめを苦に自殺した」といったニュースが頻繁に流れていて話題になっていました。これがきっかけかどうかは分かりませんが、3年生の前半には自然といじめられなくなりました。こういった出来事から自分に自信がなくなり、社交性に欠けているのかもしれないと思うようになりました。

高校生になってからは、せめて笑顔だけは努力しようとしていたのが良かったのか、友達と大きなトラブルはなく楽しく過ごせました。 しかし、友達とうまくやらなくてはいけない、嫌われたくないという気持ちはずっと持っていて、今でもそれは変わりません。

朝礼が苦痛

高校卒業後は、中学生の頃から憧(あこが)れていた美容師の専門学校に入学しました。そして、晴れて美容師になりましたが、パーマ液やカラー剤のアレルギーのために、半年ほどで退社しました。その次に、人工のまつ毛をつけて、まつ毛を⻑くするアイリストとして働きましたが、これも接着剤のアレルギーになってしまい、自分にも、もちろん付けられないし、人に施術することが出来なくなり半年くらいで退社しました。 

美容師をあきらめて24才で宝石店に就職しました。ある日の朝礼で、皆の前で自分の名前を呼ばれてドキっとして体が大きく震えました。そのときは、なぜこんなに大きく震えたのか訳が分からず、自分の体に何が起こったのだろうと思いました。そのときは皆に注目されたことが怖かったのです。それからは、朝礼での発言で注目されることがどんどん恐くなりました。朝礼の最中に恐怖のあまり、皆の輪から走って逃げ出して、休憩室で泣いたりしていました。

心療内科で社交不安障害(対人恐怖症)と診断

朝礼に参加することがとても苦痛になり、心療内科で診てもらったところ、社交不安障害(対人恐怖症)と診断され、それから薬を飲んでいましたが、日々、悪化していきました。 買い物でレジの人に声をかけられるのが恐くて、買い物に行けなくなったり、人の目が怖くて相手の顔が見られなくなったり、また人前で字を書くと手が震える書痙(しょけい)になりました。でも書痙の症状は後に2年ぐらいでなくなりました。 

最近になって、書痙の症状がなくなったきっかけが、これかなということを思い返してみました。ある日、郵便局で住所と氏名を書きました。動悸が激しくて、手も震えて、当然、震えた字を書きました。その書いた紙の写しの控えをもらって、じっくり自分の字を客観的に見返していたら「なんだこれ、読めなさすぎるし、ヤバすぎて笑える。もう、いいや! 上手く書けないんだから、乱雑な字を書く人ってことでいこう!」と開き直りました。そうしたら、いつのまにか書痙の症状はなくなりました。 

森田療法を知る前のひきこもりの生活

しかし、仕事は人前が恐いので退職しました。 当時、同棲していた彼氏がいましたが、退職後は1年ぐらい、ひきこもりの生活でした。 どん底の私の心の支えだったのは、彼氏でした。その彼は、働けと言わず見守ってくれていました。家事以外は、引きこもって何もしないでいたのですが、買い物すら行けないのは、まずいと思うようになり、症状(社交不安障害・対人恐怖症)がありましたが、少しずつ買い物に行けるようになりました。 色々とあって、その彼氏とは別れました。

やっぱり美容の仕事がしたい

しばらくしたら、やっぱり美容の仕事がしたいと思うようになりました。20代後半でカット専門店に就職して、がむしゃらに技術を覚えました。仕事以外にも練習などで、始発で行って終電で帰宅するような日も多かったのですが、カットがとても楽しくて、技術磨きに没頭していました。睡眠も3時間ほどでしたが、仕事が楽しくて疲れもほとんど感じませんでした。最初はあがり症の薬を飲んだりして誤魔化しながらでしたが、いつの間にか朝礼での発言も、症状社(交不安障害・対人恐怖症)は忘れていました。 そのときは、もっと上手くなりたいと技術のことばかり考えていました。カットがしたいという「森田療法」で言う「生の欲望」(よりよく生きていきたいという人間本来の欲望)」で、症状を忘れていたのだと思います。また、美容師は鏡越しにハサミの動きなどを、お客さんにじっと見られたりすることも多いのですが、注目されていても症状はありませんでした。

森田療法に関心を持ち、そして自助組織「生活の発見会」との出会い

32才で結婚して千葉県に引っ越しました。妊娠して、つわりが強く、職場も遠いので仕事は退職しました。

6年前に長女が幼稚園に入園しました。 入園後の懇談会で自己紹介があり、動悸が強く体が震えて、今までれていた症状(社交不安障害・対人恐怖症)を思い出しました。 それ以降、懇談会の予定のお手紙をもらう度に動悸が止まらず、夕飯を作ることも難しい日があり、森田療法で言う「予期不安(発作がまた起こるのではないかという不安)が強くなりました。

15年ぐらい前に、森田療法のことはネットで少しみ見たことはありましたが、そのときは森田療法で言う「あるがまま」の意味を理解できなかったので、それ以上、森田療法に興味を持ちませんでした。

3年前に何か良い本はないかと調べていたとき、佐藤たけはるさんの『あがり症は治さなくていい』(アドラーと森田療法関係図書)という本に出会いました。タイトルだけ読んだときは「いや、治したいでしょ」って思いました。なんとなく読んだその本には森田療法のことが書いてあり、著者もあがり症です。内容は「あがり症の症状を持ちながらも行動していく」というような内容でした。それで森田療法にまた関心を持ち、自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)のホームページに辿(たど)りつきました。

自助組織「生活の発見会」の集談会へ、初めての参加

先ず、ホームページに載っていた森田療法を実施している病院に行くようになりました。 そして、先生の勧めもあって1年半前に自助組織「生活の発見会」が全国で運営する集談会(森田療法を学習し体験交流する場)に参加しました。初めての集談会は、とても怖くて、皆さんの顔もまともに見られず自己紹介をしましたが、どなたかが「ようこそ、いらっしゃいました」と言っていただいたのがとても嬉しかったです。

私は今まで自分の症状を本当の意味で、集談会の皆さんに開示することができていなかったように思います。震えること、そして言葉につまることを集談会で隠そうとしていました。 安心できる場所なのに、心のどこかで安心できていませんでした。

夫の森田療法への理解と思いやり

そして、今年の春に基準型学習会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)に参加しました。学習会で発言できるかとても不安でした。 最初の数日は、症状がつらくて学習会に行くのが苦痛でしたが、回を重ねるたびに場の雰囲気に慣れたのもあって、思ったことを発言することが少しできるようになりました。

学習会の中盤では、些細(ささい)なことをきっかけに、夫と大喧嘩をしました。口論のきっかけは忘れましたが、夫に「子供の運動会があるのに、なぜ学習会を休まないのか」と言われ、「今の私は学習会の方が大事だ」という内容でした。私は「神経質ゆえにこういった考えになりやすい」ということを伝えて、夫に森田療法の学習テキストである「学習会シリーズ」と「森田療法の要点」の本を読んでもらいました。夫は、今まで疑問に感じていた私の発言や考えに少し理解をしてくれたように感じます。 今までの私は、人前が苦手ということは、夫にも伝えていましたが、具体的な症状は隠していました。夫には私のことをもっと知ってもらいたいのに、人前で話すことに震えて恐いなどと言ったら、変な人だと思われて見下されるに違いないと思い込んでいました。

しかし、喧嘩の数日後に、私の症状(社交不安障害・対人恐怖症)や考え方の癖を伝えた夫の反応は、私の想像とは違いました。後日「今まで何も理解してないのに、いろいろ言ってしまってごめん」とラインが来ました。はじめて夫に自分の一番弱くて知られたくないことを伝えることができて気持ちが楽になりました。そして、夫が私の症状を少しでも理解してくれたことが嬉しかったです。

森田療法を学習してからの幼稚園での自己紹介

学習会の後半の時期に、末っ子の幼稚園の懇談会がありました。自己紹介するのは薄々わかっていたのですが、40人ぐらいの前に立ってマイクを持ってするなんて想像もしていませんでした。 内心「どうしよう逃げ出したい!」という気持ちでパニックでした。 ポケットに追加用に入れておいた薬を飲みましたが、効き目は間に合わなかったです。

たまたま隣にいたお母さんもパニックになっていたようで「絶対イヤだ!絶対ムリ!」と言ってアタフタしていました。 順番が来るまで他の人の自己紹介を観察していると、いつもより声が震えていたり、何人かの人の緊張が伝わってきました。自分の番になって前に立ちましたが、大地震が来ているかのように足がガクガク震えて、立っているのがやっとの状態でした。自分が何をしゃべっているのか、わからなかったけど話すのに夢中でした。

自分を縛っていた厳しい思考

話し終えたあと、今までの私なら「足が震えてしまった、最悪だ」と自分を責める気持ちだったと思いますが、その時は「何とか話し終えた」という達成感の気持ちでした。全く上手な自己紹介ではなく、あたふたしていて症状も思いっきり出ていましたが、終わったあとに達成感があったのは、あがり症になってから初めてのことでした。

隣にいたお母さんも私の次に話し終えて「私、何しゃべったのか、分からなかった!」と興奮しながら私に伝えてきました。私と同じだと思いました。 人前では皆、緊張して震えたり、動揺して何を話したのか忘れてしまうようなことがある。こういったことは自然なことだと腑に落ちた出来事でした。 今までは、震えてはいけない、言葉に詰まってはいけないと「自分で自分を縛っていた厳しい思考」から自由になれた気がしました。

森田療法を学習し、素直に自分の弱さを認められる

私は、生活の発見会の中でも、自分が一番つらくて悩んでいると思っていましたが、学習会が終わってからは、そうは思わなくなりました。 自分の弱さを認められるようになり、症状を気にする気持ちが小さくなった気がします。 あがり症の症状は少しもなくなっていないし、自分の理想とは程遠いけど、人前で震えたり、 アタフタすることが当り前と思えるようになってきたのかもしれません。 また、森田療法で言う「予期不安」(発作がまた起こるのではないかという不安)に襲われたら、今回の幼稚園の懇談会のことを思い出してみたいと思います。

私は、不安障害(神経症)のことを少しでも理解してくれた夫と、自助組織「生活の発見会」という場があって皆さんに出会えたことに感謝しています。ありがとうございました。