体験記一覧[書痙(手の震え)]

「あるがままのわたし」を受け入れて(瀬戸口絹子さん・54歳・会社員)

19歳のころ勤めていた会社で、お客さまにお茶を出したときでした。突然、手先がブルッと震えてしまいました。その場にいた部長から、ちょっと笑いながら「手が震えているよ」と指摘されたのです。それがきっかけで、震えることに注意が向いていきました。それはまた、常に自分が人から見られているという怖さを感じたはじまりでもありました。

もともと子供のときから、人前では恥ずかしがりやで引っ込み思案なところがありました。でも親からは内弁慶といわれていたくらいで、ことさら手の震えを意識するような場面はありませんでした。

ところが、手が震えたのを指摘されて以来「今度また、震えたらどうしよう……」と不安になり、だんだんと会社でお茶を出すのが恐くなりました。「震えるわたしはダメだ」という思いも強くなっていき「震えるところを人に見られたら、知られたら、軽蔑される、どうしよう」という思いが、いつも頭の中を駆けめぐっていました。

ほめられていた字が…

常に自分の理想どおり、ものごとを完璧にやろうとしていたのが、わたしの生き方だったのでしょう。10年、20年とずっと仕事に真剣に取り組んで、それなりに評価を得ていたのです。ところがいつのころからか、なんとなく心身ともに疲れたような状態が続くようになりました。わたしなりに精いっぱい努力を続けましたが、とうとう限界です。手の震えがきっかけで精神的に仕事面でも行きづまり、どうにも身動きができなくなってしまい、やむなく退職届けを書いて仕事を辞めました。

ひとりのときでも手が震えて字が書けなくなり、家に引きこもりました。毎日毎日手を見つめ「これさえなければ」と情けなく、こころの中は真っ暗で、先の見えない不安と恐怖に怯(おび)えていました。なんとか電車に乗っても、車中はずっと下を向いたままです。みんながわたしを見ているようで、怖くて顔が上げられませんでした。死にたいとさえ思いました。

なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。小学生のころから、まわりからは「字が上手」とほめられていました。それが優越感を育てたのでしょう。のちに「手が震える」ことに劣等感をもつようになったわたしは、仕事で自信を失ったことが痛手となり、いっさいの優越感が打ち砕かれて劣等感が勝ってしまったのです。そのため、字を書く行為を恐怖する「書痙」におちいったのではないか、そう思います。

引きこもってから3カ月が過ぎたころです。ある新聞の相談欄に震える恐怖で悩んでいたかたへの回答があって、森田療法のことも紹介されていたのを思い出したのです。早速書店に行き、『森田理論で自分発見』(生活の発見会編)を見つけて買ってきました。自分の悩みと同じ内容が載っており「ひょっとすると、これで治るのではないか」と思いました。生活の発見会本部へ電話をして、大阪の初心者懇談会を教えていただきました。でも会に行けば字を書かなければいけない、その恐怖心から、出席するまでに2カ月かかりました。

「遠慮なく落ち込む」

やっと初心者懇談会に出席したときです。「あなたと同じように悩み、森田理論を学んでいる人たちの集談会が大阪にはたくさんあります。ぜひ出席してみてください」とすすめられました。なんとしても当時の状態から抜け出したかったわたしは、生活の発見会に入会して集談会に出席しました。

集談会では、同じ書痙で悩まれた支部委員のかたに個人面談をしていただきました。「よくわかりますよ。つらかったですね」と共感してもらえて、手が震えるのは自分ひとりではないと、安堵を感じたものです。

二度目に集談会に出席したとき、山中和己先生が来られました。その日のわたしへのアドバイスは「手の震えをなくすのが人生の目的ではありません。もともと神経質の人は、あれもこれもと望みが高いのです。ゆえに自分がこれまで、『とらわれに苦しみながらも、よくやってきた』というその事実は認めていません。今後はどんな些細ことでも、今できていることやってできたことを発見して、まず自分で自分自身をほめてやってほしい。それに、落ち込むときには自由に遠慮なく落ち込んでください」という内容でした。「遠慮なく落ち込んでください」と言われ「なるほど、落ち込んでもいいんだ!」と自己否定の強いわたしは、ホッとしたのをよく覚えています。そこから、生活のリズムを少しずつ元に戻しながら、布団あげ、そうじ、食器洗いなど、今までできてあたりまえと思っていたことを、一つずつ認めていくようにしました。また、その間に再就職も果たしました。

わたしのような悩みは書痙や茶痙と呼ばれていることも、そんな学ぶ過程で知りました。さらに、先輩のかたたちが悩み苦しみながらやってこられた体験談を聞き、わたしも立ちなおることができるのでは…と思えるようになりました。

しかし、長年わたしの中に染みついた手の震えに対する恐怖心と劣等感は、そう簡単にはとれません。卑屈になったり、人と比べてよくできたと思えば優越感を味わったり、まるで振り子のような心理状態にふりまわされて、こころの葛藤はずっと続いたままでした。

いつか集談会で山中和己先生が「神経質のとらわれは、人間性についての無知から起こります。だから『森田』に学びつつ生活をして、人間心理や神経質の事実に関する、気づきを深めることが必要です」と話されていました。それを聞いて、もっと森田理論や人間性について学びたいと思うようになりました。

原因が「かくあるべし」

大阪基準型学習会を受講し、つぎのようなことがわかってきました。いつも人によく思われたい、よく見られたい、人ができることは自分もできなければいけない…、わたしは何事にも完璧(100%)を求めていました。ですから手が震える自分が許せず、自分自身でダメ人間のレッテルをはってしまっていたのです。そんな、間違ったものの見方、考え方が「とらわれ」へとつながっていったのではないか、と気づかされたのです。集談会などで森田療法を学ぶうちに、「~でなければならない」「~であるべきだ」「~主義」から発想し生活することの間違いを、知らしめられました。わたしはそういう見方、考え方で自分のこころを締めつけ、こころの自由を失ってしまっていたのです。そして山中和己先生がよく「自分の『かくあるべし』に気づいて、少しでも減らしていってください」と言われていたのを思い出しました。それからは日々の生活の中で、こころの中に幾重にも貼りついた「かくあるべし」を一枚ずつ剥(は)がしていきました。その作業を繰り返しおこなっていくうちに、自然とこころが解放されていくのがわかりました。そうすると、徐々に肩の力が抜け、こころが軽くなり、まわりが見えてくるようになりました。それまでは何気なく見ていた、道端の花の色や花びらの形がはっきりと見えて、こころから綺麗と思えました。

同じ神経質の悩みでも、明らかに表面にあらわれる「震え」で悩むゆえに「わたしの方が苦しい」と思っていましたが、それは自分勝手な見方でした。「他の人も同じように苦しいのだ」と考えられるようになり、共感してもらえる喜びから、共感できる喜びに変わっていったのをおぼえています。

「こころの世界」に目が開く

森田療法を学ぶことで「人間は緊張したら震えるのはあたりまえ。自然なことだ」とわかりました。そして劣等感で支配されていたこころが解放されました。つらくても悩みは悩みのまま、苦しみは苦しみのままにしておくことこそ大事だったのです。「いつでも、今の自分自身そのままの状態から出発する以外にないのだ」という事実を森田療法は気づかせてくれました。「クヨクヨしながら仕方なしに生活をするしかない」ということも覚悟できました。

いまも手が震えることはあります。けれど「ときに震えるのが、わたし自身そのものなんだ」と認めてから、書痙の自分にふりまわされることはなくなりました。世間常識に自分を合わせようと焦っていたわたし、そういう社会的な自分ではなしに、今ここにいる「あるがままのわたし」を受け入れることができました。森田療法は、人生をどうとらえるかという、永遠につきない探求課題を与えてくれました。これからも、生きていく基盤として森田療法を学び続けていきたいと思います。