体験記一覧[疾病恐怖]

森田療法に出会えて(疾病恐怖と出世恐怖)(K・Iさん・男性・会社員)

<森田療法に出会う前の地獄のような雑念/読書恐怖>

 大学受験に向け、生涯一番勉強した3年間だと思います。両親との会話の記憶はあまりありません。遊ぶことなく 3 年間全力投入しました。

 ところが、あと3カ月で受験の時、あと 3 カ月だ!完璧に理解するぞ、集中するぞ!と気張れば気張るほどスッキリ、完全に理解できたかをチェックし、雑念が一つでも浮かんでは集中してないと再度最初の行から読み直し、1ページ読むのに30分も1時間もかかるようになりました。

 翌日も翌々日もまた雑念が湧いた!ダメだと。今日はどうだろうか? 日々不安感が強烈になり机に座るのが怖くなりました。朝起きると今日もダメかもと予期不安が一気に襲ってきました。集中する為に机の周りにカーテンを張り巡らしたり、やる前に精神統一をしたり、雑念を除くためにジョギングなどいろいろしましたが効果は全然ありませんでした。

 1校しか申し込みをしてないので万一不合格のことを考えると1年間は辛抱できなと絶望感を感じ不安のどん底に陥り自殺の仕方をいろいろ考えるようになりました。電車、睡眠薬、電気ショック等楽で費用が発生しないやり方をいろいろ検討しました。

 母親にどう相談したか思い出せませんが、母親と病院の精神科に行きましたが「受験間近かで神経質になっているだけ」とのことでした。どのような状況で受験したのか今は記憶ありませんが、結果は合格でした。名前を見た時は本当に足から力が抜けました。不合格だったらと今でも考えるとぞっとします。

<この経験が原体験(トラウマ)になりました>

 「私は一生懸命になりすぎるとノイローゼになる」「私は性格が弱い、性格を強化することが今後の最大の課題」という観念が定着しました。

 大学生活はエンジョイしましたが、時々ふっと疑問が例えば「人生とは」「愛とは」「絶望とは」等が浮かぶとその疑問の答がそらんじて言えるまで他のことが手に付かない事が何度もありました。1つ問題が発生するとそれが気になりそれがスッキリ解決されないと次の行動に進めませんでした。

 会社に入社後20年間、転勤・昇格の時などいつも強烈な不安が毎回襲ってきました。「私は性格が弱いので昇格とか初めての仕事などの困難な状況に突き当たると挫折する、以前のようにノイローゼになる」という強烈な不安がいつものしかかってきました。

 入社後、性格を絶対強くしなければと思い、「太っ腹をつくる」「こんな幹部は辞表をかけ」「逆境に強い人」「自信をつける」「陽明学」「菜根譚」「論語」「聖書」「活学」などを乱読しました。転勤、引っ越し準備は妻に任せて部屋にこもって不安解消に没頭しました。妻もまたかといった感じです。

第2の危機<森田療法の理論に出会ったきっかけは悪夢の「疾病恐怖」でした>

 42歳頃、平均的(?)に遊んでいましたので、一応この機会に検査をしておこうという軽い気持ちでエイズ検査しました。陰性。でも1ヶ月検診では不確かという情報もあり2ヶ月後、いや3ヶ月後、6ヶ月後検査が正確との情報から病院や保健所等で7回検査しました。

 エイズ検査をするうちに同じ血液の病気である肝炎、梅毒等の病気も心配になり検査しました。同じ病院で検査すると変に思われるので他市の病院で検査しました。

 その頃は、手帳にびっしり病院巡りスケジュールを記入し受診と結果で毎週病院へ、そしてその都度、医者のあいまいな表現(多分とか、現段階ではとか)でまた不安になり完璧な安心を求めて、次の違う病院で同じ質問、また不安・・このようなことを繰り返ししてました。

 仕事中でも不安がわき上がると「先日の病院の結果と医者の問題ないとの発言」など自分に言い聞かせ、計算上の可能性は50万分の1とか安心を得る自問自答を会社の別室にこもりしました。

 不安で圧迫されそうな時は、仕事中、外へ出て散歩をしたり人のいない部屋で「大丈夫!」と自己暗示をかけ安心感を無理やり作りました。でもそれは長続きせずすぐ不安感にさいなまれる自分がいました。

 そのころはエイズに似ている言葉、バンドエイド、ディズニーなどをみると思考停止状態。新聞、雑誌でエイズの記事や殺人記事、自殺記事などの記事を見ると不安感が急激に襲ってきました。映画、新聞、テレビはどんな内容でも不安を起こすので見られなくなりました。この世の地獄は先祖の業が原因か、感染してたら村八分になるな~。「神様助けてください」と本当に泣けました。

 症状がピークの頃、昇格の推薦を受け「能力査定セミナー」が2泊3日でありました。6人グループ3班で課題分析、討論、発表する様子を動画にとり、複数のコンサルタントが個人評価をするというものです。こんな状態では昇格は到底無理、参加しても能力を100%発揮できないので辞退しようと思いましたが“辞退したら今後マズイぞ”という“心の声”があり受けるだけ受けようと参加しました。

 セミナー中に、何度も強烈な不安が襲って来ましたが必死になって目の前の課題に取り組みました。1ヶ月後の結果報告では、評価は最悪だと思っていましたが「的確にポイントをつかみ」など予想外の良い結果でした。

 「強烈な不安をかかえたままセミナーを受講できた」経験は私にとっては初めての経験でした。症状があっても、やった結果はそのまま出る。“悩みながらでもやるべき事ははやれる”という体験は、その後の会社生活、私生活のいろいろな場面で活かされるようになりました。(森田療法を知ったあとの気づきです)

<森田療法との運命的な出会い>

 セミナー受講後も不安が益々強くなり、いよいよ俺もダメか、精神病かもと心療内科を受診しようと思い始めた頃、本棚に長谷川先生の「行動が性格を変える」があり(いつ買ったか思い出せないですが正に運命的な出会い!)、読んでいくうちに、今まで読んだ数十冊の本には無い“本物”を感じ、一気に読破、“救われる!”と思いました。

 その本に書いてあった「生活の発見会」を知り、初心者懇談会へ参加しました。講師の「それは認識の誤りだよ、時間はかかるけど治るよ」に初めてホットした思いがあります。

 その後は近くの集談会へ参加させてもらいました。同時に「基準型学習会」に参加し森田療法の学習と日記指導又自分自身について深く考える素晴らしい機会を得ました。

 その頃は、「行動が性格を変える」を肌身離さず、マーカー、コメントと手垢でボロボロになるまで読み込みました。

 「不安はそのままに今やるべきことをやる」を行動指針に。仕事はやることをリストアップし1つ1つ不安のままやりました。発見誌で読んだ「布団挙げ、靴磨き、植物の葉拭き、ふろ掃除」で先輩はなおったとのことで素直にいろいろしました。これらをすることで症状だけに向いていた思いが初めて外に向き始めました。

 病院めぐりはやっていましたが、あるとき喉元から出そうになる質問を我慢して病院を出た時、心がすっと軽くなりなんであんな質問を考えたのか不思議に思いました。そして病院めぐりはやめました。

 森田療法から学んだ、「不安はそのままに・・・・」「布団上げ」等実践でとらわれていた目線が少しずつ外向きになってきた結果だとおもいました。

 「行動が性格を変える」は手垢が付くほど持ち歩き読みました。その間に森田療法関係書籍「森田理論で自分発見」「森田正馬全集1~5巻」「心の再発見」「神経質の本体と療法」等を熟読してました。

 そうこうするうちに、今までになく症状を忘れて仕事に没頭している自分に気づき驚きました。それを転機に急激に「とらわれが」なくなってくるのがわかりました。

<なぜ疾病恐怖に陥ったのか>

誤った認識

・不安、恐怖あってはならないもの。気分は常にスッキリとしていなければならないもの。悪い感情は「努力」でなくすことできる。コントロールできるという認識。

誤った行動

・不安、恐怖を取り除くことに全力投入、一点の不安のない気分を目指して病院巡り(ドクターショッピング)をしました。

正しい認識

・不安、恐怖は自然現象でどうしようもできない。コントロールできないもの。逆に不安、恐怖はあるのが自然。不安があるから注意深く行動し失敗しないように社会を生きぬくことができる。

正しい行動

・不安、問題があるなら、具体的対策を打つ。病院で検査し検査結果が問題ないなら、気分がどうであれ、問題なし(森田療法で言う“事実唯真”)

・不安は不安のまま今やるべき事をやる。サラリーマンなので与えられた仕事をきちんとする。

<なぜ疾病恐怖に陥ったのか(もう一つの背景)>

 「自分は性格が弱い、困難に弱いだから性格改造が必要」という解決困難な課題より問題解決しやすいエイズという1つに的を絞り戦闘を開始、精神交互作用で“とらわれ”た結果神経症になったと思います。(森田療法の防衛単純化)

 異動、昇格などの初めての経験は不安を覚えるのは当然であり、不安に学び事態をしっかり見極め不足する知識、技能の準備をすることがなすべきことであったと思います。

第3の危機<53歳のとき、本社から子会社への異動>(森田療法の理論の活用)

・役員として着任した新しい職務が全く合わなかった。(一生懸命努力したが、合わなかった)社長、部下との人間関係もうまくいかなくなり、朝はうつ状態。会社に行くのが嫌で嫌で仕方なく、夕方は心が軽くなりました。これはうつ病かもしれないと大変心配になりました。

 そこで、生活の発見会活動を理解していただいている協力医師に相談しました。

 「3カ月一生懸命やれば仕事の適性がわかる。合わないなら、環境を変えるほうがよい。それは逃げではないよ」「うつではないね」と大きなヒントをいただきました。仕事に習熟すれば必ず仕事は面白くなると過去経験していたので、「例外」もあるものだと初めて経験しました。

森田療法の理論で学んだこと

・形を崩さず、健康的生活を維持する(決まった時間に起床し、キチンと会社に行く等)

・今、やるべきこと(仕事)を嫌々でも丁寧にする。

・何事も悲観的になりがちなので、できたことを認める等を柱に、森田療法で学んだことを総動員し、問題解決にむけて具体的解決策を立てました。(環境を変える策)

 親しかった人事関係者への情報収集で、同様な事例は沢山あるとのことで安心。そこで思い切って関係会者の社長と本社人事に希望を伝えました。これは恐怖突入でした。リストラの可能性、更に合わない関連会社への異動の可能性も。結果的には希望分野を聞き入れてもらい良いと思える職種につくことができました。あれほど悩んでいたのに2週間後には復調しました。

第4の危機<大型プロジェクトの責任者>(森田療法の理論の活用)

 本体に復帰して5~6年、やりがいのある仕事とそれなりの成果を上げている中、大型プロジェクト(投資額100億円規模)の統括リーダーの辞令が発令されました。1 年以内に活性化のプランを出せとトップ指示。直属上司が社長のような状況です。

 今までは数億円規模の活性化計画は、経験があるが、この規模は初めて。それからが毎日が強烈な不安、早朝の3~4時ごろに冷や汗で目が覚めることが何十回も発生しました。

 「活性化の方針未決」「関係部署との連携不足」「数ヶ月後に迫った社長ミーティング」等が、いつも頭の中を駆け巡ってました。

 ここでは、森田療法を知っていたので救われました。知らなければ「不眠恐怖」に陥り、途中で職責を辞退していたかもしれません。

 早朝覚醒は自然現象で仕方ないな・・・と自然に受入れることができました。“目が覚めるのは仕方ない。やることをやってないからからな”と枕もとにノートを準備し、不安で目が覚めたときには問題点と解決策を思いつくまま1~2時間くらいかけて、書き切ると不安も自然に薄れ眠くなってきます。毎回同じです。

 時々寝る時に、急に不安が襲い息苦しさ、イライラ感ありますが「ほっておこう」「その感覚をあじわっている」と、そのうちに寝れました。ほっておくノウハウは身についていました。(あるがまま)

 (昔ならこれはやばい!一寸起きて座って落ち着こうとか外で新鮮な空気を吸って落ち着こうとかやりくりをしていました)

 このプロジェクトの為に「森田療法」に出会ったのではないかと思う時がありました。深夜の帰宅途中に何度も“もう駄目だ!実力不足、ギブアップ!困ったなー!”と思いました。

 昔なら、“この不安を取り除かなければ”と思っていたと思いますが、ただそのまま“大変だ~”で放っておくと(感情に小細工をしないでそのままほっておくと)、そのうちに新しいエネルギーと知恵が出てきた経験が何度もありました。

 また、会社の大先輩から仕事に行き詰まったら「脳から血が出るくらい考えろ!」「ちょっと下がって全体的を見ろ」と言われ“腹”にストンとくるまでで考え続けました。

 森田療法独特の考え方「不安は欲望の裏返し」、ストレスはエンジン、エネルギーの源泉のように思えました。

 森田療法を知っているから、何があろうと大崩しない思いがあります。不完全でも、どうにかプロジェクトをやり遂げた自負があります。森田療法を知らなかったらどうなっていたか・・。森田療法に感謝です。

【よく活用する森田療法の理論】

●【感情の法則】
① 感情は、そのまま放任し、または、その自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと登りひと降りして、ついに消失するものである。

② 感情はその刺激が継続して起こるとき、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるものである。(精神交互作用)

 (経験)パニックった時は、ちょっとほっておいて待つ。(10分、1時間、1日・・) ⇒感情が“ひと山”を越えて考える。

 (経験)仕事等で行き詰まり出口がわからなくなったときは

 ⇒幹(目的)を忘れて、枝葉に入り込み、全体が解らなくなり疲れ切っている状態。

・急所の20%は、なにかを再考する。(20-80 の原則)

・ちょっと肩の力を抜き、目的は何か?と、全体を観ると20%の急所が見えてくる。

神経症でも社長になれた(Y・Tさん・男性・会社役員)

自己紹介

 37歳で発見会入会後、33年集談会を続けています。

 未熟な私でも、集談会に33年通ったお陰で、普通の人間になれました。もともともっていた神経症の良い点を伸ばし、悪いところは発見会で修正したら、社長になれました。

1 小学、中学生時代神経症の要素がすでに存在

 私は佐賀県の吉野ケ里遺跡の町で生まれました、鉄腕アトムの漫画の影響を受け、お茶ノ水博士のような科学者にあこがれる少年でした。

 実際、電子工作オタクで、小遣いを貯めて部品を買いラジオの製作に没頭している無邪気な少年でした。友人との付き合いは少なく一人でいるときが多かったようです。

 運動は苦手で運動会の100メートル走では、最初こそ横一線だけど、じりじりと抜かれて行き、最後はビリから2番か3番でした。一生懸命やっても、やっぱり抜かれてしまう。これは、自分の将来を暗示しているのかと、子供ながら心配しました。

 神経症の特性の一つ、心配性もすでに持っていました。森田療法の理論では、神経症の人は、素質として心配性があるといわれています。それにぴったりあてはまります。

2 「高校1年の時神経症に」

 高校1年の時、口の中にできものができました。図書館の「家庭の医学」を読んで病気についてしらべました。梅毒という文字がとびこんできました。頭から血の気がひいていきました。保健体育の時間に梅毒はコップから伝染すると教わったことを思い出しました。「梅毒に罹ったかもしれない、大変なことになった」と不安になりました。 それから「家庭の医学」は、私の聖書になりました。普通の聖書と違う点は読むたびに不安になることです。一日中病気のことが頭にこびりついて離れません。

 保健体育の先生に手紙で相談して心配ないとの答えをもらいましたが、すでに神経症の症状が固着してしまっていたのです。勉強どころではなく成績も下がっていく一方で、大学受験も失敗しました。

 ただ、この時の解釈は、間違っていました。後に、森田療法の理論の勉強をして分かったことですが、神経症の症状がでたから成績が下がったのではないのです。勉強しないので成績が下がり困難な状況が原因となって症状がでた。順番が逆だったのです。

 さらに、症状さえなくなれば、勉強に集中でき、集中さえできれば成績は上がると信じていましたが、これも森田療法の理論を勉強して間違いだと気付きました。

 実際は、症状をとることに専念して、勉強をしなかったので成績は下り、大学受験は失敗した。これが事実です。

3 大学サラリーマン時代

 その後、浪人しても神経症は克服できず、成績もあがりませんでした。結局、不本意ながら大学は工業短大というところに入りました。 しかし、大学の専門は電子科で、好きなことができて、症状はあまり顔をだしませんでした。

 神経症の症状は、現実社会で充実していれば収まるのです。しかし神経症は、治ったわけではなく、私の中に身を隠して存在していたのです。人間的に成長し、正しい心構えと、変化しなければ、神経症は克服できません。一時的に収まった神経症の症状は、困難な状況になれば、すぐ再発するのです。

 就職は、モノづくりの会社に入社し、好きなことができました。そのころはマイコンブームで、マイクロソフトのビルゲーツやアップルのステイーブジョブス達が成功者として讃えられていて、自分も感化され、専門技術やビジネスの勉強をしました。

 そうしているうちに神経症も収まり、エンジニアとして充実した日々を送ることができました。

4 起業と同時に症状が再発

 35歳の時、一人でパソコンのソフト会社を創業しました。

 世間もお金の苦労も知らない社会での経験不足の技術者が会社をおこしたのですから、労働時間、仕事の面で生活が激変しました。経済的にも困窮しました。

 子供らにオヤツを買ってやることもできなくなり、彼らは救急箱のチョコレートの虫下しを隠れて食べていました。

 心配性の私に将来に対する不安が襲ってきて、それらの要因が重なり神経症が再発しました。大学受験とおなじく困難な事態が症状を引き起こしたのです。

5 集談会との出会い

 苦しんで解決法を模索していたら、森田療法の理論の青木 薫久著「なんでも気になる心配症をなおす本 」に出会いました。巻末の折り込みで「発見会」の存在を知りました。

 そこで、集談会に参加してみました。集談会は、私にピッタリあっていました。集談会に通うようになって、1年位して症状はなくなりました。

 その後 33年間、ずっと通っています。発見会で勉強して、症状が最終の問題ではないことや、人間的に未熟なことが神経症の大きな問題であることに気がつきました。

6 症状が消えた瞬間(恐怖突入)

 起業してすぐの頃、メインの顧客から私の能力以上の仕事を受けたことがあります。ボリュームが大きく、技術的にも難しく、完成できないのです。

 その時は、仕事がなかったので、お客に「死んでもやります」と無理やり貰った仕事ですから、やってみたらできませんでは済まされないのです。

 最後には、睡眠時間を3時間位にして、3週間頑張りました。症状もあるなかでの作業ですから、それこそ地獄でした。

 頭がおかしくなってしまっていたのでしょう、「もーだめだ、できない。死んでもやりますと言った以上、死ぬしかない」と考えました。 どのようにして、死のうかと考えているうちに、少し正気に返ってきて、どうせ死ぬのならやれることは、全てやってみようと腹を括りました。その瞬間、サーと症状が消えました。

 それから頭がさえ、課題がすらすら解けるようになりました。火事場の馬鹿力だったのでしょう。

 結果、無事納品することができました。この成功体験がそれからの人生に良い影響を及ぼしました。

 「腹をくくれば症状は消える。迷っていると症状はでる」。そのような心構えができました。

 私には物事を先延ばしにするという間違った心構えがあります。この未熟な心構えは、神経症の原因の大きな要素であることに、気がつきました。

7 集談会で役を引き受けると心構えが変わる

 発見会で幹事をやるように先輩から勧められました。レクレーション係を担当し、バーベキューやハイキング、懇親会などを企画実行しました。この役が、内向的かつ経験不足の私にとって、大きな勉強になりました。

 不思議なことに、集談会活動を一生懸命やったら、会社の業績もよくなりました。集談会の活動で、人間に対する誤った認識が是正され、それが社員にたいしても、おなじことが言えると、気がついたからかもしれません。

 また、神経症者が本質的にもっている心配性が、大きな失敗や事故を防ぐことにプラスに働いたようです。神経症のお陰で、35年間会社を潰さないで、続けられました。

8 次男も集談会で治った

 5年前、私の次男が鬱になりましたが、集談会で治りました。自分が集談会と森田療法で治ったこと以上に、子供が治ったことは嬉しいことです。

 また、集談会と森田療法には、力があるという証明といえるでしょう。集談会に親子二代で恩を感じています。

9 一生を支えた成功体験(恐怖突入)

 森田療法を勉強して思い出したことがあります。それは大学生の時、中学の初恋の人にラブレターを書いたことです。それも速達で出したら、速達で返事がきました。自分の人生で一番嬉しかったことは、この速達の返事をもらったことです。

 「清水の舞台」から飛び降りる覚悟でやった、ラブレターの投函は、自信となって、その後の人生で心の支えとなり、これこそ森田療法の恐怖突入だと体得しました。

 迷ったときには、この成功体験を再利用するようになりました。それを何回も繰り返していたら「だめでもともと、やるだけやってみよう」という心構えが形成できました。

10 森田神経症をモデル

 私が考えた神経症のモデルを紹介します。

・前輪は、ハンドルでコントロール可能(行動、心構え)が相当します。

・後輪は、不安、恐怖など症状でコントロール不能です。

 後輪(不安、恐怖)は直接コントロールできないが、前輪に附いてくるので、前輪で間接的にコントロールできます。

11 症状が治っても発見会を続ける理由

 症状が治って、症状を治すことがゴールではないことに気がつきました。ゴールは、豊かな人間性をもち、よりよく生きること、幸せになること。その点では、まだまだ道半ばです。

 そして、発見会の幹事や世話人を引き受けることが、その道につながることが分かったのです。

 また、自分が何か少しでも人の役にたっている実感が嬉しいのです。それが集談会活動を続ける理由です。