体験記一覧[パニック障害]

あきらめは、はじまり(T・Kさん・女性)

 不安神経症の辛い状態に陥って、一人ではどうしようもなかった。自分の力だけではどうにもならなかった。森田療法に出会ってから今月(平成27年2月)で丸2年が経ち、多数の方々の援助をいただき、困難を乗り越えることができました。それらを想い起こし懐かしむような心境にはまだないけれど、その間に体験し感じたことを正直に書いてみたいと思います。

第1の援助 夫

 平成25年の終わりの12月の半ばに、知っている人もいない見知らぬ土地に引っ越しをしました。子供のいない気軽さと、夫婦ともに自己実現をしたい強い欲求を持っていたため、年齢を考え(夫39歳、私49歳)最後のチャレンジという気概がありました。

 私は10年前、パニック発作を伴う不安神経症の恐怖症という診断を受け、公共の乗り物や閉ざされた空間での恐怖感を、薬物療法で乗り越えていました。 今回の引っ越しを機に再び不安発作が顔を出し、時と場所を選ばずに、居ても立ってもいられない強烈な違和感や逃げ出したい恐怖が迫ってきて、せっぱつまった感覚にたびたび襲われるようになりました。非常に困りました。自分に何が起きているのか、何をどう考えてよいのかわかりませんでした。

 完全に薬を切るまで7年もかかった経験から、再び精神科を探して薬物療法を始めることはためらわれました。とらわれから離れることができずに、テ レビを見ても美しい空の映像から高所の恐怖を、神秘的な海の映像から水中の息苦しさを、室内の映像は閉所恐怖を、乗り物はパニック発作の恐怖を連想し、ラジオから流れる音楽によって心が動くことが、食事をして胃腸が動くことが、鏡はおろか自分の指先を見ても何かにつけて恐怖に結びついてしまい、まだまだ我慢できると思っていたのに、心の隙間が徐々に埋まってゆくようでした。

 自分の心や身体の状態のささいな変化を見ることにものすごくエネルギーを注ぎ続け、おびえることしかできませんでした。しかし一方、ふるえながらも家事をして身なりをととのえ、睡眠の質は悪く度々目覚めても、毎日眠れてはいました。出かけるときは夫に頼り、その時だけ薬を飲み面接を受けたりもしていました。 2月の半ば、夫がインターネットで森田療法と集談会を調べ、私に勧めてくれました。夫は知っていたようですが、私は初めて耳にする言葉でした。森田先生との出会いにつなげてくれたことを、私は一生夫に感謝します。

第2の援助 集談会の先輩方々

 夫の車で送迎してもらい、初心者懇談会におそるおそる参加しました。治りたい一心で、ふうふうと肩で息をしながら出口に一番近い席についた私のその時の本心は、「ああ、ついにこんな所まで来てしまった」という差別的で傲慢(ごうまん)なものでした。世話人の方々や幹事の方が、代わる代わる声をかけて下さり、話を聞いて下さって、「よく解りますよ。大丈夫、治ります」と笑顔で言ってくれました。その時手渡された「森田理論学習の要点」の内容と、話された講義に深く納得しました。

 「神経症の成り立ち」は、自分のこれまでの人生を言われているかのようでした。表面上、明るく楽観的に生きてきた反面、決して取れない重りのような死の恐怖や空虚感、永遠に対する観念的な恐ろしいものなど、解決したいけれどできないので感じないように蓋をして閉じ込めていたものに、初めて光が当てられたと感じました。

 得体の知れないオバケのような存在だった神経症というものが、自分の頭で考えること、自分の語彙で対応できたという安心感から、帰り道は症状もなくなり待っていてくれた夫の車で、久しぶりに楽しい心地を味わいました。

 その後10日間ほど何事もなかったので、神経症になる以前に戻ったかと思ったくらいです。1ヶ月後を待てずに、いくつかの集談会に参加しました。とにかく早く治りたくて、症状をとりたくて必死でした。ただ、森田療法ではなく森田哲学でやっていきます、何でも言うことを聞きます、という受け身的な対応でした。読書は好きでしたが、単なる読書にならぬよう森田療法の書籍3冊程度をゆっくり何度も読みました。

 仕事の方は、当初のチャレンジはひとまず脇に置き、経験のある仕事を2~3時間から始めました。3カ月程で症状の出る間隔が長くなり、「治 ったか」と錯覚をする、それくらい勉強をしても、まだまだ神経症のからくりも、治るということも全く解っていませんでした。集談会で「治った」と言うと、喜んで下さる方と、その後が想像できたのでしょう、ともかく見守って下さる方とがいらっしゃいました。

第3の援助 森田療法実践医のドクター

 6 月の終わりから 7 月の終わりまで、症状と予期不安にとらわれ続け、再び、はがれなくなりました。気持ちだけではなく、自律神経の乱れから消化不良は毎日で、通勤途中でもトイレに駆け込むことがあり、仕事中会話をしながらも発作に苦しみ、冷や汗と心悸亢進に耐え続けました。運転中も呼吸にとらわれ、吸って、吐いて、と意識 しながら呼吸困難感にも苦しみました。

 「 もう 1 日、もう 1 日」、「以前は 3 日で収まった。5日かかった」とか、指折数えて、「あと半日」、「夜になったら」、「朝が来たら」、「あと 1 時 間だけ」… と、そんな毎日を送り、3週間たったところで今回はもう限界だと思いました。仕事を辞めるか医者に行くしかないと思い、どこかが完全に停止してしまい、自分で自分に指令が出せなくなる前にと医者に行き、話をして薬を出してもらい飲みました。

 集談会でも相談すると、「薬は杖と思い、杖をついてでも前へ。今はそういう時期」とアドバイスしていただきました。森田療法の指導医であるドクターは笑っていました。 「先生、おかしいですか?」と、私もおもわず笑ってしました。薬を3カ月飲み、半年間通院しました。森田の勉強で軽快に向かったのちの大きな揺り戻しの落ち込みを5ヶ月経験したのち、日記指導により救っていただきました。

 ここまでの体験で、「人間はこんなに危機的状態になることもあるのだ」、ということを思いしらされました。私は相談できる集談会という場があり、また日記指導の中で、赤ペンで短く「よし」と肯定して下さったドクターに出会えて、本当にラッキーでした。と同時に、この頃から「もう治らないんだ」と思い始めもしました。なかなか受容まではいかず、残念な悲しい気持ちで一杯でした。

 それから先を一言でいえば、耐えに耐えた 1 年間でした。森田の勉強をし、フルタイムで仕事をし、家事をし、ヘトヘトになりながらも他にどうしようもなく、文字通り歯を食いしばって日常生活を続けました。森田に対する期待が大きすぎたのかとも思いましたが、一方、辛い時に自分で乗り越える力を身につけたい、症状だけを目の敵にするのではなく、物事を全体でとらえ日々無事に過ごす方が大事、自分の人生をもっと真剣に考えようなど、本当に当たり前のことを感じ、思いました。

 通勤時ハンドルを持つ手が震えても、全身が緊張して昼食がとれなくても、1 時間も耐えられないと思っても、何とかこらえて夕方まで仕事をし、帰りの車中で何度も涙を流しました。よろよろと腰をかがめ、自宅の玄関に入ると座り込み、両手で顔を覆い、声をあげて泣きました。日曜日の集談会や初心者懇談会が拠り所でした。「症状を治すことをやめよ」と言われても、「自分も自然の一部であり、あるがままでいるしかない」と言われても、頭での理解を越える日はなかなか訪れませんでした。

 3月で医者通いも卒業しました。毎日フルタイムで働き、家事をし、時に外食をすることもできるのだから、自分でもそろそろ卒業だろうなと解っていました。 「日常の一瞬一瞬を大事に生きてゆけば、おのずと道は開けます。心は、いずれ勝手に回復していきます。焦ることはないよ」と、ドクターは相変わらず笑っていました。私も心細くうなずき小さく笑いました。通院時、数回地下鉄やバスに乗り、「あまりに怖くて薬を飲むのを忘れました」と報告している自分は、さすがに本気でおかしかったです。

第4の援助 基準型学習会で指導していただいた先生方と仲間の皆さま

 何をしていても日々は過ぎてゆくのですね。冬を越し、春を迎え、夏のさ中の頃には、変わらぬ不安感を持ちながらも、時に自然に笑っている自分を静かに感じることもできるようになってきました。治りたくて、治りたくて、 治りたくて、もうこれで、もうこれでと思っても治らなくて、治らない変わらない自分とずっと戦っているうちに、「あきらめ」 が熟成していったようです。

 初心者懇談会で世話人としてもお手伝いさせていただく中で、こんな状態の自分でも他者支援ができるかも、またしてみたいという欲望を感じ、改めて欲望は元気の源であり不安とセットなのだと思いました。一昨年は中止になった「基準型学習会」に、9月から参加しました。忙しい毎日で 睡眠時間を削って理論学習をし、森田の本を読み、生活日記と学習日記を書きました。

 私の場合は学習日記が効いたようで、解っていたつもりの理論が毎日の勉強によって身体に入ってきました。表面は変わっていなくても、内側で少しずつ変化していったのだと思います。嫌な気持ちを嫌なまま受け止めている自分。不安感に背を向けず向かい合ってみる自分。そんな単純な事が、変わらぬ日常生活の中でチラチラと見え始め、恐れに対する恐れが減りました。

 次から次へと必要なことは訪れ、2年ぶりに高速道路にも乗り、県外に出かけました。自分から心悸亢進しよう、不安になろうと踏ん張っても症状は出ませんでした。すっきりした訳では決してありません。学習会も 3 分の 2 が過ぎると、症状は時に出て嫌だけれど、このまま生活を続けていけそうだと思いました。

 基準型学習会は、私にとって大きな転機となりました。神経質を発揮して、欲望に沿い真面目に粘り強く学びました。これというきっかけがあったわけではないのですが、その時々のさまざまな感情をそのまま受け入れられるようになってきました。

 そしてホッとしたのも束の間、次の課題(親の介護)が突如やってきて、紆余曲折 、二転三転あり、再び引越しをすることになります。遠く離れた場所にいて、山積する介護手続きやら何やらを、日常生活も学習会も手放さずに 1 ヶ月で順次こなしたことは、自分ながらあっぱれでした。ここでも 、神経質の良いところを発揮できたようです。

 そして2年前と同様再び仕事を辞め、平成 27 年 1 月終わりに、実家とはいえ暮したことのない新しい土地に引っ越しをしてきました。 森田を学んだおかげで、新たなチャレンジに臨むことができます。不安や恐れはあり、時にきつい症状もあるけれど、それはそれで流れていっています。 あきらめは、陶冶の始まりでもあるようです。

第5の援助 友人たちと職場の皆さま

 友だちや職場の仲間の人たちは、いつも変わらず気にかけ励ましてくれ、治ることを信じ続けてくれました。ありがたいことです。常に常に。

 最後に、森田を学び始めて2年。能力はなく、まだ小学生程度だと自分では思っています。だからこそ、これから学びを深めていくことは、生き甲斐につながります。価値観の変わりはじめたこれからの人生が楽しみです。今回は体験したことを書こうとしたのですが、結局気持ちの変遷に終始してしまいました。あえて過去を探ることはせず、不安や恐怖の原因探しはやめしました。2年間の“今”の羅列です。名古屋でお世話になった皆々様には、言葉では言いつくせないほど感謝しています。私の魂を救っていただき、ありがとうございました。

パニック障害だった私が、〝運のいい人生〟と思えるまで
(T・Sさん・男性・68歳・元教員)

 私は幼いころから病弱で、2ヵ月ほど学校を休んだこともあり、病気には人一倍敏感でした。

 パニック障害を発症したのは、教師になって12年目の春です。5年生のときから多くの課題を抱えていたクラスを、6年生から担当し、思った以上に悪戦苦闘の連続でした。

 そんなある日の早朝、いつものように、仕事先に向かって車を運転していたところ、急に心臓の動悸が気になりはじめました。目の前が真っ暗になり、何とも言えない「死の恐怖」が覆いかぶさってきました。

 「いったい何が起きたのか?」「ああっ、死んでしまう……」車のなかで、恐怖に押しつぶされそうになりながら、じっと耐え、動悸が収まったころ、すぐに隣町のA心臓外科病院に行きました。そして検査をした結果、心臓には異常はないと言われたのです。

 いったんはホッとしたものの、「あの動悸は何だったんだろう?」「目の前が真っ暗になったのはどうしてなんだ?」「また動悸が起きたらどうしよう」といった恐怖感や不安感がじわじわと湧きおこり、頭から離れなくなりました。夜になるとその恐怖や不安感は、口に出して言い表せないくらいの大きさになり、襲ってくるのです。居ても立ってもいられなくなり、病院に頼み込み、入院させてもらいました。そして、仕事には病院から出かけていくようになりました。

 少し落ち着いてきたある朝、また急に、何とも言えない恐怖感・不安感が襲ってきました。それを振り払おうと思ったとき、今度は過呼吸に陥り、またしても「死の恐怖」を味わってしまいました。

 今度は、まわりの患者の様子を見るだけで恐怖は頂点に達し、不安が不安を呼び、恐怖が恐怖を呼び、地獄のどん底に陥ってしまいました。

 「もう頼るところは、B市に住む姉しかない」。すぐさま姉に電話をかけ、泣きながら状況を訴えました。姉に「すぐにB市に来なさい」といわれると、取るものも取りあえず、妻と二人の娘をつれ、家から400キロも離れた、実家からも近いB市に向かいました。

 翌日、姉につき添われて向かった病院は精神科の病院でした。ここではじめて、不安神経症(心臓神経症)と病名がつきました。何とも言えぬ安堵感がありました。得体の知れない症状に名前がついたのが嬉しかったのです。

 1カ月近く実家で過ごし、8月下旬、病院で紹介状を書いてもらい、自宅に帰ってきました。私の場合、家より職場にいたほうが安心できました。何かあったらまわりの人が助けてくれるからかもしれません。

 そのときは、薬を飲みながらも休まず仕事に出かけ、担任していた6年生の子どもたちを無事卒業させることができました。

 発症して2年、症状への不安を抱え、びくびくしながらの生活がつづいていた夏、ふと立ち寄った本屋で目にしたのが『心配症をなおす本』(青木薫久著・KKベストセラーズ)でした。

 「私と同じ人がいた。同じ悩みを持ち、克服した人がいる!」悶々とした気持ちに一筋の光が差し込んできたのです。何ともいえない嬉しさがこみ上げ、涙があふれてきました。 巻末に「生活の発見会」の紹介があり、急いで発見会事務局に電話をしたところ、近くで、会員の集まりであるK集談会が開催されていることを教えていただきました。藁にもすがる思いで参加しました。30年前の8月のことです。

 部屋には十数名の参加者がいて、私はハラハラドキドキしながら自分の症状について話しました。代表幹事のOさんから、「よく来られました。ここでみんなと一緒に森田理論を学習し、実践していけば、薄紙が剥がれるように、少しずつ良くなっていきます。がんばりましょう」と言われたのを、今でもはっきり

 集談会に参加、学習するようになったからといって、症状がすぐ良くなるようなことはありません。他の人の症状に影響され、いろいろな神経症の症状が次から次とへと私を襲い、苦しみました。

 そんななかでも継続して集談会に参加し、「森田理論」を学習することで、神経質症の成り立ちや行動の原則などを少しずつ理解することができるようになってきました。今まで雲をつかむようにモヤモヤとし、つかみどころのなかった神経質症の正体がわかりはじめ、神経質症を克服するにはこの「森田理論」の実践しかないことを確信しました。

 そんななか、5年生の担任を任されました。正直、5年生には2泊3日の林間学校があり、引き受けたくなかったのです。校長に辞退を申し入れても、受け入れられませんでした。

 とうとう林間学校の日が来ました。「清水の舞台から飛び降りる」覚悟で、引率の仕事につきました。 1日目はなんとか無事に終え、2日目は登山でした。山を登ること自体、心臓神経症のど真ん中にいる私にとっては地獄の行程です。

 「ここは山のなか、発作が起きたらどうしよう……」クラスの先頭を歩く私の頭のなかは、徐々に高まる心臓の鼓動の音だけです。

 そんなとき、「T先生のクラスの2人の児童が迷子になってしまった!」という連絡が入りました。途端に私の頭のなかは、迷子になった2人の児童の安否のことで、いっぱいになりました。

 校長からすぐに「迷子になった児童たちは、ほかの引率者の先生がたに任せ、T先生は登山を続行してください!」との指示が出ました。私は、迷子の児童たちの安否を気遣いながら、登山を続けました。そして、私たちも、無事宿舎に戻ってきました。

 この体験をとおして、私は気がつきました。あんなに心臓のことが気になっていた登山前半の私の不安(感情)が、児童が迷子になったという情報が耳に入った途端、迷子の児童たちの安否という新たな不安(教師としての本来の不安)に移行したこと。つまり、今まで持っていた不安(感情)は新たな不安(感情)が生じることにより、消滅(小さくなる)するのを、引率登山という行動のなかで体得したのです。

 また、あれほど心臓の鼓動が高まっても、現実の対応に心が向かい、発作が起きなかったことで、心臓そのものには異常がないのを改めて確信しました。森田理論でいう事実唯真です。

 以来30年、私なりに神経質症から脱却したポイントが数点あることに気がつきました。

 ①入会当初は、森田理論を熱心に学習していたが、途中から行動することの大切さを指摘される。それ以後、行動に重点をおいて日常生活を送る。

 ②「恐怖突入」を何回も行い、「できた」ことを意識的に脳裏にインプットし、自分の自信につなげていった。ときには「6割できればよし」という考えも取り入れた。

 ③日常生活のなかで困難に遭遇したとき、森田の「あるがまま」「事実唯真」「逃げるな」などのことばを、お経を唱えるように心のなかで唱え、「恐怖突入」を繰り返した。

 ④妻と2人の子どもを養う立場である以上、いろいろな困難があっても逃げ出すことができなかった。いつも「清水の舞台から飛び降りる」覚悟で生活することができた。

 ⑤家族には、症状のことで「グチ」を一言も言わなかった。

 ⑥森田理論を学習し、学んだことを、素直に実生活のなかで実践するように心がけた。森田は、私の生きる上での大きな羅針盤になりました。今、自分の人生を振り返ってみて「運のいい人生だったな」とつくづく思います。そしてその裏には、大勢の人々の力添えがあります。私を生み、育ててくれた両親、兄弟、私と家庭を営んでくれた妻や2人の子どもたち、一人で眠れない日に快く泊めてくれた友人、悩みを親身になって聞き、支援してくれた集談会の仲間……。みなさん、本当にありがとうございます。

出会いはパニック障害からの回復への第一歩
(川上万里子さん・51歳・主婦)

私は、父は公務員母は教員の堅実な家庭に育ちました。1歳半違いの妹がいます。家では親の言うことをよくきく大人しい子、外では人なつこく賑やかという子供でした。みんなに好かれていたいという気持ちが強かったように思います。

小学校高学年から胃がよく痛むようになり、中学のときに神経性胃炎と診断されました。高校生になると過敏性腸症候群の症状に振り回され、休み時間の度にトイレに通った時期もありました。症状が精神的なものからきているという自覚はあり、大学3年になって、この状態を何とかしたいと思い神経内科に通い始めました。いささか的外れな診療科目でしたが、優しい先生に症状を聞いて頂くだけで安心できたように思います。成長と共に自分に自信がついてきて、なんとなく体調は良くなっていきました。教員となったのを機に病院通いもやめ、25歳で結婚、26歳で退職、27歳で出産。以後、夫が失業したり流産したりといろいろありましたが、友人、知人に恵まれ、家族3人元気に楽しく暮らしていました。

バイク通勤ではじまった緊張

その後2週間だけ、小学校特別支援学級の非常勤講師の依頼を受けました。いきなり仕事と家事でフル回転になり大変でしたが、無事任期を終えました。その後別の学校からの依頼で、慣れないミニバイクでの通勤が始まりました。朝、ハンドルを握ると緊張で震えましたが「そのうち慣れる、大丈夫。」と自分に言い聞かせました。学校では緊張しっぱなしでした。帰りのバイクでも緊張、家でも時間に追われて焦りっぱなし。でも、家事で手を抜くのはいやでした。「すごいね」と言われる自分でいたかったのです。人によい評価を受けたい気持ちが強いのです。そうしてせいいっぱい頑張っての1週間目、一睡もできずに迎えた朝、パニック発作をおこしたのでした。

実は以前にも一度、過呼吸の発作をおこしたことがありました。急に呼吸が浅く速くなり、体が震え立っていられなくなったのです。全身から汗が吹き出していました。そのときは発作が治まった後は特に違和感もありませんでしたが、今回は違いました。胸のドキドキがいつまでも治まらず、体が強烈にだるく力がはいりません。よろよろ歩いてかかりつけの内科へ行きました。話を聞いた医師は抗不安薬を1錠だけくれて、「様子をみるように」と言いました。血液検査では、リンパ球が正常値の半分しかなく、「ストレスです」とも言われました。ドキドキは2日位で治まったものの、あまり眠れず1週間後に再び発作。もう内科では無理と思い心療内科へ。「軽いうつ病またはパニック障害」と診断され、1日3回の抗不安薬と睡眠薬を処方されました。「そのうち慣れる。大丈夫。」と自分に言い聞かせ、薬を飲みながら勤めていましたが、緊張は強まるばかり。朝は下痢してトイレ通い。吐き気は強まり頭はくらくら。足元がフワフワして、首の上と下がつながっていない感じがしました。もう無理と、任期終了を機に仕事を辞めました。薬は医師の指示に従い、2~3ヶ月そのまま飲み続け、ひと月で断薬。不安と緊張が押し寄せ、かなりつらい思いをしました。その後も、いつも「いやなことが目前に迫っている気分」が続いていました。

症状と闘った日々

その頃大学生の息子が一人暮らしをしたいとアパートを探し始め、私の体調は急降下。自分が「空の巣」になるとは思っていませんでしたし、そうなってしまってもまだ認めたくありませんでした。一睡もできない日が増え、強い頭痛、首や肩の強烈なコリや吐き気に悩まされるようになりました。テレビの音声も変な音に聞こえました。いつもドキドキ緊張していて、電話やメールにもビクビク。テレビの恐ろしい映像やニュースで症状はさらに強くなり、ほんの小さなきっかけでパニックになりました。常にだるく疲れているのに、いてもたってもいられない、押し寄せるどうしょうもない空虚感。深い淵にかろうじて浮かんでいるような不安と身の置き所の無さ。強い孤独感。自分には生きている価値がないとも思いました。心療内科の医師に不信感を持っていた私は、漢方薬での治療を試みましたが、体調は改善しませんでした。食べられず眠れず体重も激減。仕方なく初めにかかったかかりつけ内科医に相談。そこで抗うつ薬、抗不安薬、睡眠薬、漢方薬による治療が始まりました。少しずつ良くなっていったのですが、医師が病気のためクリニックを閉院。インターネットで森田療法を取り入れているクリニックをみつけ、通院し始めました。

先生に治療と指導を受け、森田療法の本をたくさん読みました。不安でも症状があってもやることをやろうと「1時間歩く」「家事を丁寧に」など小さな日課に取り組みました。薬もゆっくり減らしていきました。減らす度に理由の無い緊張、不眠や頭痛が強くなりつらかったです。それでも「仕事に出たい」という気持ちが強くなり、先生には「あるがままができていればなにをしてもいいんですけど、できてないから」と反対されましたが、パートに応募。採用され1週間後からの勤務が決まりました。ところが、その晩から不安で不安で薬を飲んでも眠れないのです。何も知らない仕事のことで頭はいっぱい。予期不安を思いっきり育ててしまい、とうとうパートをキャンセル。「まだ早かったんだ」と自分に言い聞かせ、再び主婦業に気持ちを向けることにしました。

体調も上向いてきた頃、隣人から学校給食のアルバイトに誘われました。以前やっていたので「これならできる」と週3回勤め始めました。やはり緊張は強く仕事の覚えも悪いながら、ノートに仕事の手順を書くなど工夫しました。薬なしでは眠れなくなり食欲もガタ落ちしましたが、なんとか冬休みに突入。ホッとできると思いきや、また不安が押し寄せてきたのです。何をしても仕事のことが頭から離れません。不安と緊張は膨らむ一方で、またまた眠れず食べられず体重激減。冬休みが明ける前に逃げるように辞めてしまい、そこからは完全に自信喪失して自己嫌悪。どうしょうもなく自分が情けなく、外へ出ることさえ怖くなってしまいました。私は自分をうつ病だとずっと思っていましたが、このとき初めて先生に「今のあなたは神経症です」と言われたのでした。

基準型学習会で得たもの

なんとか自分を立て直したくて生活の発見会入会、集談会に参加するようになりました。集談会は、初めてのときから不安や緊張がほとんどありませんでした。ありのままの自分を出して受け入れられることで、安心できたのだと思います。先輩たちの体験を聞き今の様子をみて、自分も立ち直れるという希望を持ちました。悩みや苦しさを共感できる人たちといることは、それだけで心強くもありました。「だまされたと思って、とにかく1年続けてごらんなさい」と言われ、そうしてみようと思いました。

専業主婦に戻り、症状はありながらも、日々を丁寧に暮らすことをまた心がけるようになり、チラシまきのアルバイトも始めました。これさえも不安になり、減薬も進みましたがなかなか縁を切れずにいました。過去や今のいやなことがいつも頭の中を巡っていて、不安、緊張、不眠、頭痛などが続いていました。また、「考えて決める」という頭の使い方――例えば、スーパーで「何を買って何を作ろう」なんて考えるとギューッと緊張してしまい、トイレに駆け込んだりしていました。

学習会にも参加し、だんだん「今の自分でいくしかない」という覚悟らしきものができて、身の丈にあった小さな一歩を、「できた」と評価できるようになってきました。自分を理想にあてはめていく生き方をずっとしてきて、いきなり大転換とはいきませんが、大きく舵を切り始めています。症状がなくなったわけではありませんが不思議と断薬でき、病院にも行かなくなりました。

パニック障害、うつになって5年近くが過ぎました。何とかしようともがいて転がり落ち、少し良くなっては落ち込むことを繰り返しました。うつ病の後に続く神経症は、彗星の尾のように残っています。自分が一人前であるという自信は無く、湧き出る不安も仕事に対する恐怖感も消えてはいません。でも、この不安をそのままにできることを重ね重ねて、自分を育てるしかないのだと思っています。私にとってはすごい進歩です、天がリハビリさせてくれていると思っています。集談会での役割も増えました。自分のいられる「場」を拡げ、不安があっても動けるという自信を育て、いつか人のなかで働けたらいいなと思っています。

生活の発見会との出会いは、本当の意味での回復への第一歩でした。学習会講師の方々には、向かうべき方向を示す灯台を頂いたと思っています。