神経症「強迫症(強迫性障害)」になったことで「家族との繋(つな)がり」を得た私 (埼玉県 Y・M 主婦)
神経症「強迫症(強迫性障害)」の発症
親の介護をきっかけに神経症「強迫症(強迫性障害)」を発症しました。
発症は辛(つら)い経験でしたが、本来の「自分」を知ることができました。その後、再発という事態に見舞われましたが、発症・再発と、その度に家族との向き合い方を学ぶことができました。
生い立ち
私は43歳で神経症「強迫症(強迫性障害)」を発症し回復しましたが、56歳で再発しています。現在は「森田療法」の勉強のおかげで、症状の「とらわれ」からは大分解放され楽になりました。
私の主な症状は強迫症(強迫性障害)ですが、普通神経症(身体症状症)も不安神経症「不安症(不安障害)」も持ち合わせていると思います。身体の一部に違和感を感じると、それをいつまでも気にしてしまいますし、神経症を発症した頃は、自分の全てに自信を無くしてしまい、その時は電車に乗るのも怖い、大勢の人の中にいるのも不安になったという経験があるからです。
私は父と母と兄の4人家族の家庭に育ちました。父は瞬間湯沸かし器のような短気な人で、母とぶつかると機嫌が直るまでは、口をききませんでした。自分の気持ちにこだわりが強かったのだと思います。社交的な性格ではなく、人と接するのは、あまり得意ではありませんでした。母は見るからに優しくステキなお母さんと思っていましたが、後日、「森田療法」の勉強をしていくうちに、母は世間体が大事で、人からよく見られたい願望が強かったのだと思うようになりました。兄は思った事を率直に口にし、思った通りに行動する性格でした。
私はと言うと、子供の頃から不安感が強く、気になることがあると、解決するまでずっと考えてしまう子でした。そのため、当時から眠れないということがよくありました。同じ親から生まれても、兄とはタイプが真逆でした。
真面目な両親に育てられた私は、いろいろと「こうあらねばならない」という生き方を無意識のうちに自分に叩(たた)き込んでいったのだと思います。
小さい頃、父と兄と3人でお風呂に入った時の事です。熱い湯船に兄と浸かっていて、兄は我慢できずにすぐ出てしまうのに対して、私は兄よりも、もう少しがんばってみようと思いました。きっと父に兄よりすごいんだ、というところを見せたかったのだと思います。父は「おまえは我慢強い、エライ」と褒(ほ)めてくれました。そして、その時から私は小さいながらも、我慢強いのはエライんだと、そして大事なことなんだと思うようになりました。それと、兄がやんちゃで自分の思うままに行動していたので、しだいに私は(自分は親に苦労をかけない「手のかからない子」にならないといけない)と思うようになっていったのだと思います。
忍び寄る神経症「強迫症(強迫性障害)」
幼少期から神経質な性格でしたが、特に自分の性格で困るということもなく過ごしていました。結婚するまでは実家にいましたので、両親の不仲を気にしたり、父の顔色を伺(うかが)って生活していましたが、結婚後は、のびのびと生活していました。
それでも神経症の症状は忍び寄ってきていました。
子供が2歳の時に行ったサンリオピューロランド(東京 多摩市)で、私はわけのわからない恐怖にも近い感情を覚えました。
真っ暗な劇場で、子供を膝に乗せてショーを見ていると、(怖い!)と思ったのです。それはどうしようもない不安に襲われる感じで、思わず主人に子供を預け、気がつくと劇場を飛び出していました。息苦しくもなっていたようです。主人も私の様子には驚いたようですが、自分でも、わけがわかりませんでした。ただ、あの暗い中での恐怖感(広場恐怖症)と、なんともいえない不安感(全般性不安症)は残ったようで、その後ディズニーランド(千葉 浦安市)に行く話しが出た時、暗い中でのショーが不安にならない方法を必死に考えていました。
しかし、まだ予期不安(また広場恐怖症が起きるのではないかという不安)にとらわれる、ということはありませんでした。その後、子供の幼稚園がはじまり、観劇などの暗い場所に行く行事がありましたが、普通に行動していました。
ところが、子供が小学校入学直前になると、気持ちが落ち着かなくなってきました。子供は人の輪に入るのが苦手だったため、幼稚園の親がかりな生活から、何でも自分でやっていかなければいけない生活にちゃんと慣れてくれるかどうか、とても心配になったのです不安症(全般性不安症)。心配が高じて入学式が終わった夜、左耳が聞こえにくくなってしまいました。
急に耳が聞こえないという不安(不安症(不安障害))で、気持ちがいっぱいになりましたが、翌朝には落ち着きました。ただ、心配というストレスから起きた事ということはわかっていたので、「これからは、あまり考え過ぎてはいけない」と、自分に言い聞かせました。それでも、子供が小1の夏休みまでは、特に問題なく過ごしていました。
神経症「不安症(不安障害)」の発症
1学期の終わりに札幌転勤が決まりました。北国の2学期は早く、8月中旬になると始まります。順調に生活は始まりましたが、程(ほど)なくして、子供が友達と放課後の遊びの約束を上手くまとめられずに、淋しい思いをするようになりました。手伝ってあげたくても、私もまだお母さん同士の繋(つな)がりができておらず、不便な日を送っていました。気がつくと、毎日家族以外の人とは喋(しゃべ)っていませんでした。何か気が滅入るような感じがし始めていました。それでも行ったばかりの頃は、一人で家の中の足りない物を買いに出たり、地図を見ては、行ってみたいところに車を運転して出かけていました。
9月になると、札幌は天候も不安定で雨の日が多く、窓から見る空は、どんより暗く、気持ちがふさぐようになりました。その頃から帰りたい、と少しずつ思うようになり、家にいても外にいても息苦しい感じがするようになりました。子供が学校に行って1人になると、急に不安になり、息が詰まる感じがし始め、玄関を飛び出し深呼吸をしているのです。
従姉妹(いとこ)が遊びに来てくれた時の事です。札幌のあちらこちらを観光バスで周(まわ)った夜、私は疲れて倒れ込むように布団に入りました。すると、息苦しくて目が覚めました。起きてみると、経験したこともないすごい鼻詰まりなのです。「なんで寝ている時に鼻が詰まるんだろう? こんな状態になるなんて、おかしい!変だ!」と思い、自分はやっぱりメンタルをやられていると思いました。今思えば、爆睡していたせいで、いびきが凄(すご)く、鼻詰まりになったのだと思いますが、この頃は気持ちが追い詰められていて、いつもと違う事が起きると、すぐに「おかしい! 自分は変だ!」と過剰に反応し、心療内科に行って、診てもらわないとダメだと思っていました。
翌日、はじめて心療内科に行きました。
ここの心療内科は「森田療法」の相談医ではなかったので、「森田療法」を知ることはできませんでした。転勤してきたばかりで不安な事が多く、精神的に不安定になった事を話すと、安定剤を出してくれました。その頃の私は、美容院に行った時に極度の緊張から、シャンプー台で急に起き上がりたい衝動に駆られ、美容師さんを困らせてしまいました。それをきっかけに不眠が始まり、車の運転、電車に乗ること、レジに並ぶこと、何か行動する時は、トイレに行っておかないと落ち着かないなど、不安がどんどん広がっている状態でした。(どうしたら元の自分に戻れるのか)とそればかり考えていました。まだ「森田療法」を知らない私は、症状にも予期不安にも悩まされていましたが、薬を頼りにして、不安になる行動を避けるようにして、なんとか生活していました。
埼玉に戻ってから1年は、帰れた安心感からか、症状はありましたが、特に困ることなく過ごしていました。パートに出たり子供会の役員もやっていました。
しかし、2年目頃から不眠が始まりました。そして父が体調を崩して人工透析をすることになりました。まず父の病院の送り迎えをどうするか、という話しが出ました。私の実家は川崎です。仕事をしていましたし、子供も小さかったので、進んで送り迎えをする気になれませんでした。父とぶつかることが多かった母は、父を施設に入れることを考え、私に相談してきました。短気な父が、私は子供の頃から恐くて仕方ありませんでした。母の意見にすぐになびいた私は、兄に父を施設に入れる相談をしました。ところが兄は「まだ施設なんて早いだろ! 今は病院に送り迎えするだけの話しだろ」とすごい剣幕(けんまく)で怒ったのです。兄の言葉に、私はハッとさせられると同時に、その言葉は私の胸に突き刺さりました。同じ父の子供なのに、1人はまだ様子を見ようと言い、1人は施設に入れることをさっさと同意してしまうのですから…
結局、その後、父はヘルパーさんのお世話になりながら病院に通うようになり、一件落着しました。
森田療法との出会い
私はホッとして仕事に打ち込めるようになったのですが、気持ちにハリが無くなってきました。年末の頃のことです。クリスマス前日に年内の仕事を終え、家に帰る私はバスの中から見るイルミネーションになんの楽しみも感じられず、心が疲弊(ひへい)している感じでした。仕事始めの前夜は、気が重くて、まったく眠れませんでした。まんじりともせず布団の中にいると、頭の中でパチン!となにかが弾けるような感じがしました。今思うと、それは確認行動のスイッチが入ったように思えます。仕事にはなんとか行ってましたが、不眠に悩まされるようになりました。そして確認行動が始まりました「強迫症(強迫性障害)」。急に鍵がちゃんとかかっているか何度も確認したり、その確認の回数にこだわるようになったり、出かければ何か忘れてきていないか不安になったり、と自分の行動が気になって落ち着かなく、スッキリさせないと次の行動に移れないのです。そして、その後に残るのは猛烈な嫌悪感でした。どうしていいのかわからず、眠れることが気持ちが落ち着く第一歩だと思った私は、時々かかっている婦人科の先生に相談しました。すぐに眠剤を出してくれると思っていたのですが、先生は心に何かあるはずだから、それをちゃんと見直した方がいいと言われ、「ひがメンタルクリニック」を紹介してくれました。早速予約を入れましたが、初診の日まで1ヶ月以上ありました。不眠も辛(つら)かったのですが、日毎に強くなる確認行動に振り回される自分に、とにかく辟易(へきえき)としていました。全てに自信がなくなってしまったようで、乗り物に乗るのも怖くなり、札幌にいた時の症状がそっくり戻ってきてしまいました。(早く治りたい)もうそれだけの思いで、初診の日まで過ごしました。ひがメンタルクリニックで診察を受けることで、私はようやく「森田療法」に出会うことができました。
診察の結果は、強迫神経症「強迫症(強迫性障害)」でした。母は父の性格をとても嫌っていました。短気な父は、よくちょっとした事で母を怒っていました。父に怒られている母を見ると、私は恐くて、早く父の機嫌が直ってくれないかと、いつもドキドキしていました。母の相談相手でもあった私は、いつのまにか父を母の目で見ていたのだと思います。だから私も癇癪(かんしゃく)持ちの父が好きではなく、恐いだけの存在だったのかもしれません。父を施設に入れることは、決して本意ではありませんでしたが、簡単に母の意見を受け入れてしまった自分を情けなく思いました。私は自分の意見を持たず、自分で判断を下せない人間だと思い、自分の価値観を信じられなくなりました。私の価値観は小さい頃から主体性がなく、いつも他人の思惑(おもわく)に合わせていました。他人に嫌われるのが怖くて「とりあえずの良い子」になっていました。親の介護をきっかけに、自分の価値観を信じられなくなったことが「強迫症(強迫性障害)」になった原因だと思います。
その後、私は「森田療法」の勉強会に参加し、先生とは問診を続けていきました。不安との向き合い方がわかってきたことで、私の症状は少しずつ落ち着いてきました。ただ、あの頃の私は「森田療法」を勉強していけばこの性格も変わり、心が広くなり、なんでも受け入れられる万能な人間になれる、と思い込んでいました。症状は軽くなってきましたが、森田療法で言う「あるがまま」の意味をちゃんと理解していなかったため、まだまだ確認行動は続いて苦しくなることがありました。それでも、その後、両親の介護、看取り、主人の単身赴任と、なんとか、ひと通りの生活を送ることができました。
自助組織「生活の発見会」(森田療法を学び不安障害(神経症)から立ち直った人々の組織) との出会いと気づき
次に私が「再発」で躓(つまずく)くのは56歳になった時で、最初の発症から13年後です。原因は加齢による身体の変化を特別な事と考えてしまい、自分の身体症状を気に病むようになったのです。明けても暮れても自分の身体に耳を傾けてばかりいました。はじまりは不正脈だったのですが、耳鳴り、立ちくらみ、頭痛、腰痛、肩凝り、そして、ついにまた不眠が始まりました。そうなると自分に自信喪失してしまい、克服したはずの乗り物、シャンプー台恐怖など全てが舞い戻ってきました。まさか再発しているとは気づかず、精神的に追い詰められ、焦燥感が強く、辛(つら)い時期でした。ドクターショッピングを繰り返し、自分でなんとかしなければ、と気合いを入れて過ごしていた私は、ようやく再発していることに気づいたのです。
前回と同じく診察の日が待ち遠しく感じられましたが、なんとか生き延びられたのは13年前に勉強した「森田療法」の資料のおかげでした。それを開いて読み始めた時、私は始めて「森田療法」を自分の解釈でわかったつもりになっていたことに気づきました。結局は、森田療法で言う「あるがまま」は、自分の都合のいい考え方で受け止めていたのです。それでも13年間、心は流れていましたが、「体調の変化」が流れを止めてしまいました。
診察の日、症状を聞き終えた先生の口から出た言葉は「あなたは自分の体力の衰えを受け入れていない。それだけのことです。」ということでした。あれだけ苦しんだ結果の答えがこれです。(たったそれだけのことだったんだ)と肩すかしを喰らった感じでした。その時、先生から「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)」と、近く行われる「心の健康セミナー」を教えていただきました。
まずは「心の健康セミナー」に参加しました。そして、セミナー参加後すぐに「生活の発見会」に入会しました。初心者の手引きと一緒に送られてきた「生活の発見誌」は、私にいろいろな事を気付かせてくれる内容でした。これからはこの本が毎月送られてくるのかと思うと、とても心強く感じると共に、「森田療法」は生涯学習だと気づきました。そして、最寄りのO集談会に行ってみました。とても緊張していましたが、皆さん優しく迎え入れてくれました。
「基準型学習会」で森田療法を学び、“目からうろこ”と大きく成長した私。
そこで私は13年前の「森田療法」との出会い、勉強不足からの「再発」と全ての経緯を話しました。その後、初心者ガイダンスセミナーに参加しました。しかし、1日だけのガイダンスでは、やはり自分の中で森田療法を感じる取ることが難しかったので、「基準型学習会」(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)に参加したくなりました。浅草に3ヶ月通うことは、とてもハードルが高く感じましたが、集談会(森田療法を学習し体験交流する場)で基準型学習会に参加された先輩を見ていると、(自分もやってみよう)という気持ちになりました。
そして基準型学習会の始まり、初日のことです。「治りたいのなら、治さないこと」と講師の方がおっしゃいました。その言葉に驚かされましたが、これが神経症から回復する術(すべ)なのだと思いました。3ヶ月間「森田療法」を系統的に勉強し、仲間の苦しい状況を聞き、講師の方には日記指導をしていただき、13年前とは全く違う気づきを得られました。最終日は「まとめ」として「自分の治したいところ」を1人ずつ発表しました。私は不眠に悩まされていたので、寝る頃になると落ち着かなくなり確認行動が多くなります。そんな自分がイヤで堪(たま)らないと発表しました。それに対するアドバイスは、それも「私の癖」でそのままでいい、ということでした。日記指導で気づきを獲得し始めていた私は、その意味がわかりかけているようでした。
学習会後も自分の森田療法で言う「かくあるべし」には、悩まされましたが、以前とは違う確かな「気づき」がありました。気づきの一貫した点は「そのままでいる」ということでした。
まだまだ感情の選別が顕著だった頃、生活の発見誌(自助組織「生活の発見会」の月刊誌)を読んでいて、私の中にストンと入ってきた言葉がありました。「あるがままとは、そのままでいるより仕方ない」ということである、と書いてあったのです。「仕方なく手を出す」という言葉は、ずっと耳にしていましたが、「そのままでいるより仕方ない」というのは、もう究極の言葉だと思い、私には目から鱗(うろこ)でした。初めて森田療法で言う「あるがまま」を理解できたのかもしれません。自分にとって良い感情だけを選ぶことはできません。いやな感情もごまかさないでちゃんと感じる、それはとても辛(つら)いことで避けてしまいたいことです。しかし、ちゃんと感じてあげると感情が流れていくことが、段々わかってきました。
それと回復していく中で、私に大きな影響を与えたのが息子でした。
神経症で森田療法を学び、「家族の繋(つな)がり」を得る。
息子は「軽度発達障害」です。子供の頃から人間関係が苦手でしたが、就職を機に発達障害と判明しました。息子は「怒り」を抑えられませんでした。気持ちが爆発すると「物を壊す」という問題行動にでました。きっとそれは、長年受けてきた悔しさや、それに対する怒りの吐け口として発生したのだと思います。誰にも受け入れてもらえず、社会から弾(はじ)き出された結果として、他人を信じられなくなり、親さえも自分をわかってくれないと非難するようになりました。そんな息子を受け止めることは、並大抵ではありませんでした。
私は「息子が暴れて物を壊す」という問題行動をなんとかしなければと思っていました。息子にとって、それが親を困らせる行為だということくらい百も承知です。自分の気持ちをどう表していいかわからないから、暴れるしかなかったのです。問題行動にしか目がいっていない私は、息子の力には、なかなかなってあげられませんでした。
それでも息子と向き合っていくうちに、辛(つら)いけれど、ただ「そのまま」を受け入れるしかない時もある。けれど、その後には必ず落ち着いて会話ができる。その会話では、その場限りの慰めの言葉は無意味で、素直に感じた事をありのままに伝えるようにする。
次第にそういう姿勢が取れるようになりました。
息子と向き合うことで、自分の心の垣根を少しずつ取り外すことができるようになったのだと思います。息子は反面教師でもあったのです。この頃は、息子も「怒り」と向き合えるようになり、問題行動を起こしても、何も変わらない、ということに気づいてきました。大きな成長です。
私の神経症は起こるべくして起こったと思っています。
最初の発症で、私は「自分」を知ることになり、長年心を通わせることができなかった父と理解を深めることができるようになりました。再発はとても辛(つら)く苦しいものでしたが、その分、発達障害の息子を受け入れる姿勢を教えてくれたと思います。神経症になったことは辛(つら)いことでしたが、「家族の繋(つな)がり」を得ることができました。
森田療法は生涯学習です。症状に苦しみ参加した基準型学習会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)で学んだ「自然に服従し、境遇に従順なれ」。
この教えを知った私は、人として成長するきっかけを得ました。
この教えを胸に、集談会(森田療法を学習し体験交流する場)に出席し、生活の発見誌を読んで「森田療法」を勉強し続け、少しでも豊かな人生を送っていきたいと思います。
NPO法人生活の発見会は、医療機関でないため、薬を使わず根本的に神経症(パニック・社交不安・強迫・不安症など)に対処する「森田療法」が学習できる自助組織です。
全国120の森田療法協力医と連携し、神経症でお悩みの方を支援しています。
以下動画では、森田療法について詳しく解説しているので、ぜひご覧ください。
和田秀樹先生のYouTubeチャンネルで当コラムを監修している「生活の発見会」が取り上げられました。