対人恐怖症(社交不安障害)のわたしが森田療法を学び本当の自分を見つめる T.E 看護師
はじめに
私は対人恐怖症(社交不安障害)で、生き辛い生活を送り、そこから何とか這(は)い出そうともがき、自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)に出会いました。なぜ自分は人と話すことができないのか、なぜこんなに人が怖いのか、全くわけがわかりませんでした。しかし今は、少し生きやすくなりました。
その過程には詐欺被害にあうという事件がありました。しかし今は、それを森田療法という武器を持って戦った結果、見えてきたものがたくさんあります。
60歳の節目を迎えたこともあり、振り返ってみたいと思います。
生い立ち
幼少期は大分県の田舎で育ちました。隣の家まで100mあるような、道は“けもの道”という言葉がピッタリなものしかない、よく言えば自然豊かなところです。
家族は祖父母、両親、私と10歳しか違わない叔父、そして5歳下の弟です。
幼少期は叔父と兄弟のように遊んだり、貧しいながらも、初めての子どもということで、祖母にかわいがってもらったりして楽しい時期を過ごしたと思います。
やがて祖父が病気で亡くなり、叔父は進学のため下宿生活で家を出ました。私が6歳の時、弟が生まれました。家族構成が変わってくると、家族の様子も変わっていきました。
弟は体が弱く、いつもアレルギー症状が出たり、熱を出したりして、みんなに心配されていました。私の中に愛情の主役を奪われたような感情もありました。
対人恐怖症(社交不安障害)になって
父が家長となってから、それまで遠慮がちだった発言が強くなり、時に暴言や暴力を伴うようになりました。父はお酒が好きで、いつも酔っぱらっていました。しかしどんなに酔っぱらっても、他人に関しては寛容でした。また、父は高橋英樹と西郷輝彦を合わせて2で割ったような、なかなかのイケメンでした。それだけに大きな声を出して睨(にら)まれると恐怖でしかありません。恐怖はやがて「自分には価値がない」という自己否定に変わっていきました。
子ども心に「自分はこんな扱いしかされない人間なんだ。自分は迷惑な存在なんだ。ここにいることを許してもらっていいのか。どうしたらここにおいてもらえるのか。自分はゴミと一緒なんだ。だから機嫌を損ねないように、おとなしくしておかないといけない」と思っていました。これが私の対人恐怖症(社交不安障害)の元になったと思います。
学校に上がっても自分が自分であることを捨て、“相手に気に入られるように”が行動の基準でした。自分で意見を言うことは全くなく、右でも左でも人が言うままに動きました。いつも指示待ちで、誰かが命令してくれるのを待っていました。今にして思えば、軽い抑うつ症(抑うつ神経症)が、ずっと続いていたのだと思います。。
心の中を色に例えると、モノクロでカラーになることはありませんでした。
不細工で何も気の利(き)いたことは言えない私は、格好のいじめの対象でした。でも私には価値がないのだから当然と思いました。しかしやはり暴言や暴力は、苦しい思いをしました。
母親に相談したこともありますが、「勉強しろ!頭が良ければ、いじめきらんから」と言いました。わけが分かりませんでした。「成績を上げることができない私は価値がないんだ」と再確認しました。
私は自分が生きていてもしょうがない、生きる価値がないというあまりに辛い現実を受け入れる代わりに、「悲しい」とか「苦しいから助けて」という声を上げるのをやめました。
自分をモノクロの中に置き、うれしいことがない代わりに悲しいこともないという状況に置きました。そうすることしか許されないと思っていました。
自分の心が喜びも悲しみも感じなくなると、人の気持ちは全く分かりませんでした。人が笑っていると「何がうれしいのか?」といつも白けていました。悲しそうにしていると、自分と似ているなとは思っても、声を掛けてあげようとか共感しようという気持ちは全く起こりませんでした。中学で読書を推奨されていましたが、「小説なんて作り話。ありもしないことを書いているだけ」と白けて自然科学的な本ばかり読んでいたのを思い出します。
学業は今一つ振るいませんでした。普段は何も言わず、にらみをきかせ酔っぱらうと暴言や暴力の父でしたが、たまに成績が良いと機嫌がよくなりました。
高校は生活が苦しい中で私立の高校に行かせてくれました。しかし私は「お金のかかる私立に行かせてもらえた。ありがたい」という気持ちはなく、「親の敷いたレールに乗っただけ。親の見栄よ」としか思えませんでした。
その後、大分ではトップクラスの看護学校に入学。そして全国的に名の知れた総合病院に就職し、両親はとても喜んでくれましたが、私の対人恐怖症(社交不安障害)は、変わることなく何年も何十年も私の中を支配し続けました。
自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)との出会い
看護学校では国家試験に通ること、そして就職先を探すことに全神経を集中していましたので、なんとなく時間が過ぎていきました。
就職先の病院では病棟看護師の配属となりました。周りの人がとても立派に見えて「自分が価値のない人間」という思いが、ふつふつと思い出され「こんな所にいてもいいのか、昔のように、いつかつらい思いをするんじゃないか、それよりもこんな私を受け入れてくれるのか」と自分の居場所探しに必死で、必要な技術や周りの人々との接し方を学ぶことなく、苦しいことからはずっと逃げていました。
病棟勤務には夜勤があります。夜勤は人が寝ている時間に動くので、仕事のわりに疲労感が強かったのを覚えています。しかしそれ以上にきつかったのが心の状態です。就職先のスタッフはフレンドリーで、ビックリするくらいに遊びに連れて行ってくれて、優しくしてもらって楽しい時間を過ごせました。それなのに夜勤が終わると、誰も責めているわけではないのに「この役立たず!給料泥棒!」と責められているような気分になり、とても苦しいのです。
今にして思えば、私の中に完全主義的な性格があったのかもしれませんが、その時はわからず、見えない相手と戦っていました。
“いのちの電話”という存在を知り、近くの公衆電話で泣きながら話したことを覚えています。
電話の相手の方は「そんなに気にしなくてもいいと思いますけど…一度、O精神衛生センター(現在HCO)に行ってみますか」とアドバイスを受け、行きました。
センターでは看護学校の元教員が再就職でいて「仕事大変ね」励ましてくれました。自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)のことを教えてもらい、代表の方の電話を聞きました。さっそく電話したのですが、その時は私の伝え方が悪かったのか、あまりいい対応をしてもらえず生活の発見会の門をたたくことはありませんでした。
時がたち縁あって結婚し、子供も生まれて人から見れば順調な人生を歩んでいるように見えたかもしれませんが、同居の舅姑・全く育児に無関心な夫・夜泣きされて睡眠不足な毎日・逃げてばかりいて年齢を重ねた割に何も上がっていない看護技術・実家からの「家事や育児もっとがんばらないと」という励まし(圧力?)など、様々なことが重なって「もうだめだ」と思いました。何年か前に聞いた自助組織「生活の発見会」に藁(わら)をもつかむ気持ちで行ってみました。
自助組織「生活の発見会」が運営する「集談会」(森田療法を学習し体験交流する場)に参加して
受付にはFさんがいて「よくいらっしゃいました。もう大丈夫ですよ」と明るい声で迎えてくれたのを覚えています。
森田療法で言う「事実唯真(じじつただしん)」とか、なんとか理論といった話がよく理解できず、私の来る場所じゃなかったかなとも思いましたが、みんなそれぞれ生き辛さを感じており「こんな思いをしているのは自分だけじゃなかった」という連帯感というか共感が生まれて、何度か通ってみようと思いました。ありがたいことに、家族は何も言わずに快く送り出してくれました。
それでも何かと理由をつけて休みがちでしたが、通うことができました。
何度か通っているうちに、O集談会(森田療法を学習し体験交流する場)の幹事にも入れてもらい、一泊学習会では、“つどい”という冊子の編集まで任されて楽しい日々を過ごさせてもらっています。最近はコロナで何年も延期状態ですが、またざっくばらんに対面で学習をしながら交流できたらと思っています。
何年も何十年もモノクロだった私の心は、生活の発見会のおかげで少しずつ色がつき始め、生きているのが苦しいという状況から解放されていきました。
詐欺被害と森田療法の「恐怖突入」
私が50歳台になったころ、パステルカラーに染まった私の心をメタリック色に変える出来事が起きました。そのころ娘の進学で多額のお金がかかることになりました。そのために学資保険をかけていたのですが、とても足りない状態でした。そんな時に友人Aからマルチ商法を持ち掛けられ、とてもしつこく誘われました。娘の学費と他の人に「中学時代からの友達なのよ」という紹介。メールで「心のきれいな人ね。そんな人には幸せになってもらいたいのよ。私に任せておけば大丈夫」という甘美な言葉に、“言うことを聞いてもいいかな。自己否定しかなかった私をこんなに思ってくれている人がいるんだ”と思い仲間に加わることにしました。突然知らせてくるセミナーや、友人Aの知り合いの商品購入の代金の肩代わりなど、自分としては精いっぱい尽くしたつもりでしたが、ある日突然「もうやめるから。あとは自分でやって」と言われました。
「そんな…今まで大変な犠牲を払ってついてきたのに…思えばそんないい話なんてあるわけなかったのかな」と頭から冷水を浴びせられたような気持になりました。同時に怒り憎しみもわいてきました。「自分のお金だけではない、夫や子供の学資保険まで借りて準備したのに…」と家族へも申し訳なさと自分の愚かさを悔やみました。「こんないい話はないとわからずに大金を出した自分にも問題はある。借用証書に書かれた数百万だけでいいから返してくれないか」と持ち掛けました。すると「あなたは不労所得者よ。あなただけよ。なにも働かずにお金だけもらった人は。何もわからないあなたに色々教えてあげたのに。私は人が信用できないわ」と自分が被害者のようなメールが返ってきました。
頭をハンマーで殴られた気がしました。その時はっきりと“騙(だま)された、お金がなくなった自分は用済みだ”ということが解りました。許せませんでした。お恥ずかしい話ですが、その時まで友人Aの本心に全く気が付きませんでした。
「死んでお詫びするしかないのかな」とも思いましたが、死ぬ勇気はありませんでした。そんな時にいつも相談に乗ってもらっている友人に「お金は無くなったかもしれないけど、あなたには仕事と健康な身体があるじゃない」と言われました。
「そうだ私にはまだ残っているものがある。自分がどこまでやれるかわからないけれど、這い上がって見せる」と思いました。森田療法で言う「恐怖突入」の気持ちがめらめらと湧いてきました。
まず直接会って返金してほしいことを言いました。友人Aはその場では「ごめんね」と言いながら誠意を示しているようなそぶりをしましたが、いざ支払いになると“なかったことにしてください”と掌(てのひら)を返してきました。そのため法テラスで相談や、大学の法学部を出ている弟に協力してもらいました。(実際には弟と自宅まで出向きました)
他に減税対策と徹底した節約等を行いました。そして一生懸命働きました。今までは生活資金を得るためだけでしかなかった仕事ですが、「収入源はこれしかない。いい加減な仕事をして辞めてくれなんて言われたら大変。家族のために、自分のために。定年も近くなってどこまでできるか分からないけど、やれるところまでやろう」と思いました。
仕事上のことで分からないことは、積極的に聞いていきました。時間外など気にせず自分の納得できる仕事をしました。
すると今まで点でしかなかった事柄が線でつながるようになりました。小さな恐怖突入は、物の道理が解り、不思議なことに仕事が楽しくなることにつながりました。そして評価されることも多くなりました。自分が変わることで周りが変わっていくのがよくわかりました。
森田療法とともに
何十年も森田療法とともに歩んできたつもりですが、実際に自分のこととして真剣に取り組んで、改めて多くの方々が話されていたことがそうだったんだなと、胸にストンと落ちました。
森田療法で言う恐怖突入は本当に恐怖でしかありません。出来たらこんな目に合わないほうが良いと思っています。
しかしそういう場面に出くわしたら、逃げずに受け止めることをお勧めします。私の場合は、高い授業料になってしまいましたが、決して無駄ではなかったと思っています。多くのことを学ばせていただきました。物事には両面(森田療法では両面観と言い、悪いことの中には必ず良い面もあるという事)があるのです。多くの方が一生懸命になんとか救済できる方法はないか、考えてくれました。行政になんとなく払っていたお金の見直しをするきっかけになりました。お金の仕組みを知る良いきっかけになりました。
「詐欺に引っかかるなんて何やってるんだ」とよくニュースで報道されるたびに思っていましたが、こうやって人を信用させるんだということが解りました。
実は弟とは、あまり仲良くなかったのですが、「二人きりの姉弟じゃないか。頼っていいよ」と思わぬ温かい言葉をもらいました。
何よりも私は父との確執で、長い間悩んだ結果、「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)にお世話になることになったのですが、父が敷いてくれたレールに乗ったおかげで看護師の免許を取得することができ、こうやって借金でどうしようもなくなっても、働いて返済するという道を残してもらいました。私に不安障害(不安神経症)の種をくれた代わりに、私が自分で生きていく武器も与えてくれていたのです。私を価値のない存在として見ていたのではないと思えるようになりました。
弟にそのことを話したら「あんたは何もわかってないな。父は表現が下手なだけだよ。お金もないのに、高い私立学校に下宿させて通わせて、どんだけ大変だったか分かってないな。まあ、あんたには何も言わないだろうけど」と言われました。父は亡くなってもう17年たちますが、草葉の陰であきれていることでしょう。
借金はすべて払ったわけではありませんが、だいぶ少なくなりました。還暦も過ぎましたが、もう少し働いて返済していこうと思います。
この発表が社交不安障害(対人恐怖症)の方、また甘美な言葉だけでお金を無心する知り合いがいるかもしれない方の参考になれば幸いです。
これからもO集談会をはじめ、自助組織「生活の発見会」の方々の皆様、よろしくお願いいたします。
NPO法人生活の発見会は、医療機関でないため、薬を使わず根本的に神経症(パニック・社交不安・強迫・不安症など)に対処する「森田療法」が学習できる自助組織です。
全国120の森田療法協力医と連携し、神経症でお悩みの方を支援しています。
以下動画では、森田療法について詳しく解説しているので、ぜひご覧ください。
和田秀樹先生のYouTubeチャンネルで当コラムを監修している「生活の発見会」が取り上げられました。