森田療法とパニック症(パニック障害)と共に、峠から峠にうつる旅路かな(茨城県 T・T 会社員)

初めてのパニック発作

大学4年、1979年の晩秋、当時、神奈川県藤沢市に住んでいましたが、大学の帰り、東海道線の中で急に心臓が苦しくなり、脈は速く呼吸は乱れ、咄嗟に「このまま死ぬ」と思い不安に震えました。これが私のパニック症(パニック障害)の始まりでした。何とか自宅に帰り、翌日、母と病院に行きましたが、「心臓他、特に問題は無い」とのこと。「あれだけ苦しかったのに、本当に大丈夫なのか」私の不安は無くなりませんでした。予期恐怖で電車に乗るのが恐ろしくなりました。

森田療法との出会いと「目的本位」と「恐怖突入」の経験

それから2~3週間後だったと思います。大学近くの書店で立読みをしていた時、ふと手に取ったのが、東大教授の辻村明氏が書いた森田療法関係図書『私はノイローゼに勝った』という本で、これが私の森田療法との出会いでした。読めば、辻村氏の症状が私と全く同じ。森田療法の「感情は意のままにならない。行動は意のままになる」との言葉が衝撃的でした。私は感情を意のままにしたいと渇望し、必死だったのです。本の中に「器質的に問題が無ければ、目的本位に勤め人は会社に、学生は学校に行くこと。電車から途中で降りてはいけない」「倒れてのち、やむ覚悟で行け」との、ある意味厳しい言葉が心に響きました。私もたびたび電車から逃げ出したくなりましたが、途中で降りないと心に誓い、歯を食いしばって耐えていきました。

森田療法にも関心を持ち、森田療法関連の書物も読みました。就職は両親の勧めもあり銀行に決めました。兄が特に父に対して非常に反抗的であった反面、私は反抗をほとんどせず、銀行にあまり関心が無かったにも関わらず、両親の勧めに従いました。

1980年3月下旬、最初の赴任地の名古屋に行く時、東京駅に母と大学の友人が見送りに来てくれました。別れるのが辛く、名古屋に行きたくないと心の中で叫んでいました。新幹線の中でパニック発作が起きました。倒れてのち、やむ覚悟、必死に耐えて何とか赴任しました。就職後、当初は逃げ出したくなる気持ちもありましたが、徐々に覚悟が出来てパニックも収まっていきました。

銀行の営業も人見知りの私にとっては辛い仕事でしたが、何とか逃げずにコツコツやっていくうちに成果が表れ、自信もついていきました。名古屋から東京都内の営業店を経験、気が付けば同期でトップの出世をし、32歳で結婚し2人の子供にも恵まれました。

時代はバブル崩壊で、債権管理等の後向きの仕事がメインになりました。銀行も合併があり、合併した相手先の本店に異動し文化の違いに困惑しました。中間管理職として自分の担当先だけでなく、部下の担当先の管理・フォロー等に追われ、仕事が終わらず、休日も出勤の日々が続きました。パニック症(パニック障害)は収まっていましたが、果たしてこの様な日々を自分は本当に望んでいるのか、悶々と過ごしました。

心臓ペースメーカー植え込み

1996年6月下旬、39歳の時、朝、出勤途上、最寄りの駅の階段を上っていると突然、目の前が真っ暗になり失神し、前歯を折ってしまいました。このまま出勤しようか迷いましたが、一旦家に帰ることにしました。自宅で妻から病院に行くよう催促され、自分としては「どうせ、寝不足による過労が原因だろう」と思っていましたが、渋々病院に行きました。診察の結果、「危険な不整脈があり心臓ペースメーカーを植え込むしかない」と言われ、そのままICUに入院となりました。私は茫然自失の状態でした。いままで、特に不整脈を指摘されたこともなく、心臓ペースメーカー自体、どの様なものなのか分かりませんでした。「このまま死んでしまうのか」という死の恐怖を感じつつ、一方で多忙な日々から解放されるかもしれない、という安堵感のような思いも沸いていました。

心臓ペースメーカーを植え込み、退院する時、担当医から「もう大丈夫、普通に日常生活が出来ますよ」と言われましたが、「本当に大丈夫なのか」注意事項等も色々あり気になりました。銀行に復帰しましたが、多忙な業務をこなしていく自信が無くなっていました。悩んだ末、妻とも相談し、思い切って支店長に「今の仕事を続けていく自信がありません。もう少し楽な部署に異動させて下さい」と訴えました。支店長も理解していただき、検査部門に異動となりました。検査部門は営業店の検査を行う部署で、原則定時に終わるので時間的余裕が出来ましたが、以前にも増して体調や病気のことが気になり出しました。

パニック発作再発

1996年12月、仕事帰りの満員電車の中で、嫌な予感を感じていましたが、パニック発作が再発しました。激しい動悸、呼吸は乱れ、不安感で震え慄きました。翌日、休みを取って病院に行きましたが、「特に異常は無い」とのことでした。「異常は無い」と言われた以上、森田療法で学んだ「感情は意のままにならない。行動は意のままになる」の教えの通り、電車に乗って仕事に行くしかないと諦めて出勤しました。しかし、「また発作が起きるのでは」という予期恐怖が頭から離れず、苦しい日々が続きました。

検査する営業店は変わっていくので、それに伴って通勤ルートも変わっていきます。電車で座ることが出来れば、まだ良かったのですが、特に満員電車に乗る場合は、乗る前から心臓がドキドキして発作が起きることもありました。日中、仕事をしていても帰りの電車のことが気になり、落ち着きませんでした。心臓ペースメーカーの故障?こんなに動悸が激しいのに心臓ペースメーカーは耐えられるのか?携帯電話や電磁波の影響は?といった以前には無かった不安が、次から次へと出てきます。病院の診察も簡単なものだったので、何か見落としがあるのではと思い、都内の心臓治療専門の病院にも通院しましたが、特に問題はありませんでした。その時は安堵するのですが、不安は無くなりませんでした。

自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)への入会

大学4年の時に森田療法に出会い、就職してパニックが収まってからは「もう大丈夫かな」と勝手に思い込んでいました。しかし、心臓ペースメーカーによるダメージは予想以上に大きく、もっと森田療法を勉強しなければと思い、1997年4月に自助組織「生活の発見会」に入会しました。毎月の発見誌を読み参考にしました。しかし、パニック発作は治まりませんでした。

電車だけではなく、床屋でも起きました。他にも歯医者、映画館など、自由が効かない場所は避けるようになり、宴席も断るようになりました。布団に入っても心臓の鼓動や脈拍が気になると眠れなくなりました。お風呂場でパニック発作が起き、救急車を呼んだこともありますが、身体は問題ありませんでした。

それまで「死にたい」と思ったことは無かったのですが、駅のホームで電車を待っている時、このまま飛び込んだら楽になれるかも、と思って足がスーッと出そうになり、慌てて止めたこともありました。今、振り返ると「うつ病」の症状が出ていたと思います。しかし、精神科等への通院や服薬は頭にはありませんでした。心臓の専門医の診断が「異常無し」であれば、後は森田療法しかないと信じていました。「感情は意のままにならない。行動は意のままになる」「器質的に問題が無ければ、目的本位に勤め人は会社に行くこと。電車から途中で降りてはいけない」「倒れてのち、やむ覚悟で行け」との言葉が、私の身体の中に染み込んでいました。

一方で、森田療法しかないと思っていても集談会(森田療法を学習し体験交流する場)には参加しませんでした。明確な理由は特に無いのですが、休日に出かける気が起きなかったこと、発見誌(自助組織「生活の発見会」の月刊誌)や森田療法関連図書での独学でも大丈夫だろうと思ったこと等が挙げられます。森田療法の他には、たまたま新聞広告で見つけた「名僧によるカセット法話集」に関心を持ち取り寄せ、電車の中で聴いていました。法話を聴いていると心が落ち着き、パニック症(パニック障害)のことを忘れる時間が増えていきました。心に響いた名僧の本を購入し読み進むうち、仏教にも関心が広がり、禅の教えや「いのち」の大切さ等を教わりました。森田療法と仏教、そして心臓ペースメーカーにも慣れてきたこと等もあり、徐々にパニック発作は収まっていきました。

肌が合わない上司、針の筵の日々

心臓ペースメーカー植え込み後10年経った2006年、体調がようやく回復してきた頃、母が脳梗塞で倒れ、意識は戻らず植物人間のような寝たきりの状態になってしまいました。母が倒れてからは、父の認知症も進み衰えていきました。銀行の仕事も検査部門から監査部門に変わり、銀行組織の中でも重要な位置付けになり、多忙になっていきました。

2007年、直属の上司が交代しましたが、それまでの仕事のやり方を否定され個人攻撃も多く、全く肌が合いませんでした。上司の前に立つと萎縮して頭が真っ白になることがたびたびあり、毎日が針の筵にいるような心境でした。仕事は多忙で、睡眠時間が3~4時間の日々が続きました。

2009年、母より前に父が亡くなり、かわいがっていた愛犬も亡くなりました。2012年、結局一度も意識は戻らないまま母は亡くなりました。両親が亡くなり、職場環境も最悪の状態で、病気になって倒れてしまいたいと思っていました。しかし、逆にパニックは起きず、心臓ペースメーカーも気にならなくなっていました。浮かんでくるのは上司の顔ばかりで、早く交代してくれないか、と祈ってばかりいました。

銀行退職、心臓弁膜症発症

2013年2月、上司より先に現在働いている非営利法人に出向することになりました。出向先の人間関係は良好で仕事も面白く、うつ状態から解放されました。出向して1年後、転籍をして銀行を正式に退職しました。こころだけでなく時間にも余裕が出来たので、好きな読書や映画等にも時間を割けました。

勤務先に慣れてきた2014年12月、兼ねてから心臓ペースメーカーのチェック時に指摘されていた心臓弁膜症が悪化し、朝出勤時、自宅近くで失神してしまいました。幸いにも頭を打たず、鎖骨骨折とメガネの破損程度で済みました。救急車でかかりつけの病院に運ばれましたが、心臓ペースメーカーの時とは違い、事前に指摘されていたので落ち着いていました。心臓の弁が劣化しており、なるべく早く人工弁に置き換えた方が良いとのことで、2015年3月、大学病院で半日以上全身麻酔の人工弁置換手術を行いました。退院するまで病室で森田療法と仏教の本を読み、こころが軽くなるのを感じました。

基準型学習会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)と集談会(森田療法を学習し体験交流する場)への参加で森田療法の学び直し

兼ねてからカウンセリングに興味があり、時間の余裕も出来たので2021年に産業カウンセラーの資格を取得しました。人見知りで人と目を合わせることも苦手でしたが、人の話をじっくり聴く傾聴の重要性を認識することが出来ました。

パニック発作は収まっていましたが、心臓弁膜症の手術以降、体調不安や病気不安は根強く残っており、今一つスッキリしない日々を過ごしていました。たまたま受けたカウンセリングのご縁もあり、2021年に中部支部主催の準基準型学習会自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)に参加しました。コロナ危機の最中でZoomによる学習会でしたが、森田療法を学び直す良いチャンスとなり、非常に参考となりました。

その時の講師の勧めもあり、集談会に参加してみようとの思いが募り、2022年2月、発見会入会後、初めてK集談会に参加しました。「入会して25年近くも経っているのに、今更、参加しても大丈夫だろうか」との不安もありましたが、温かく迎えていただき、今では毎月の集談会参加が楽しみになっています。

準基準型学習会や集談会を通じて、「感情は意のままにならない。行動は意のままになる」、これは私自身、感情はどうしようもない、だから感情は後回しにする、イコール、感情に知らず知らず蓋をしていたということが理解出来ました。どんなに嫌な避けたい感情でも、しっかりと気付き、味わい、自覚していく。また、私自身0か100、黒か白かの考えをしがちなので、より柔軟により臨機応変に、あまり背伸びをせず、等身大の自分を意識して日々過ごしていく。その様なことが大切だなあ、とこの頃、強く感じています。

最後に、森田療法の再学習で理解したこと

思い返してみると、長い間、森田療法を独学で勉強し、理解していたつもりになっていたが、パニック症の再発もあり、これを機会に森田療法の再学習を決意し、今回、準基準型学習会参加や25年で初めての集談会への参加で森田療法の本格的学び直しができました

私は、パニック発作が起こると恐怖感や焦燥感に駆られますが、森田療法での「感情の法則第1」で感情はそのまま放任しておけば時間と共にそれらの感情は自然に収まることを数多く経験していました。そこで、対処法として、苦しくても恐怖感や焦燥感をそのまま感じながら必要な行動をしていればいつの間にか苦しい感情は流れることを体験から理解することが大切だと思います。症状が起きても必要な行動ができたという実績を自信にしてパニック障害を乗り越えていけるのではないかと思います。

最後までお読み下さり、ありがとうございました。

神経症を根本的に克服したい方へ

NPO法人生活の発見会は、医療機関でないため、薬を使わず根本的に神経症(パニック・社交不安・強迫・不安症など)に対処する「森田療法」が学習できる自助組織です。

全国120の森田療法協力医と連携し、神経症でお悩みの方を支援しています。

以下動画では、森田療法について詳しく解説しているので、ぜひご覧ください。

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和田秀樹先生のYouTubeチャンネルで当コラムを監修している「生活の発見会」が取り上げられました。