森田療法と共に、あるがままの自分で、ささやかな人生を生きる~抑うつ症(抑うつ神経症)、うつ、夜間頻尿など~
生い立ち、就職から症状、抑うつ症(抑うつ神経症)、うつの発症まで
私は、1958年(昭和33年)に生まれ、熊本で育った。3人兄弟の次男である。主な症状は、一つ目は「抑うつ症(抑うつ神経症)、うつ」である。職場でのストレスで悩んで気分が落ち込み、自己否定感、無能力感にとらわれ、頭痛とだるさと吐き気や疲労感に襲われる。「自分は課長として不適格である。」「会社を辞めなくてはならない。」果ては「死んだ方がましだ。」とまで考えてしまう。二つ目の症状は、「夜間頻尿」である。寝床に入ってから一晩の間に4、5回もトイレに起きるものである。また起きてしまったと思う辛さと睡眠不足で、心身ともに疲れ果ててしまった。そして、三つ目の症状は、下腹部の鈍痛である。不定期に短時間ながら不快な痛みが襲ってきて、恐怖を感じる。
症状が出たのは職場での悩みが直接的な原因であるが、私の神経質な性格にも起因していると思う。それは、「内向性」、「心配性」、「執着性」、「完全欲」であった。
「内向性」については、小学校から中学校にかけて、父の転勤の都合でおおよそ2年おきに転校していたこともあって、特に中学生の頃から、友だちができずに孤独でいることに対して強い恐怖感があり、「それは自分に悪いところがあるからだ」と反省しては自分を責め、しかし友だちを作る具体的な行動にはビクビクして踏み出せない、という状況に毎日真剣に悩んでいた。何事にも自責の念が強いことは今も同じである。また、いつまでも失敗を悔いてクヨクヨしてしまうところがある。
「心配性」では、小学校の頃から、苦手な体育の授業の前日には胃が痛くなって、学校を休むほどだった。また、明日のことばかりでなく、進学先や就職先など遠い将来のことまで不安でしかたがなかった。だからとにかく不安を解消するために、偏差値がより高い高校・大学へ進学しようと勉強に励んだ。しかし、進学しても就職しても心配性は昂じていき、20歳代の頃には既に退職後や老後の過ごし方を研究していたほどである。
「執着性」も人一倍であった。「ほどほど」、「だいたい」ということができず、「意味が無い」ということはわかっているのに細部にこだわってしまう。極端な例を言うと、本棚に本が逆さまに置かれていた場合や番号順に並んでいなければ、気づいた時にすぐさま並べ直さなければ気が済まない。また、仕事の資料作成では、すべてのスペースを文字で埋めなければ安心できなかった。父親からは「そんな小さなことは気にするな、もっと大胆になれ」とよく言われたが、なれるものではなかった。
「完全欲」については、自尊心が強く、理想が高いところが子供の頃からあった。小学校でたまたま成績が良かったことから自惚れて、「テストは満点でなくてはならぬ」、「生活態度も立派でなくてはならぬ」と自分に背伸びを強いてきた。予習・復習など学習計画を細かに作って完全にこなそうとし、できないことを自ら叱責して無理を強いたので、学生時代はなかなか達成感や充実感を味わうことはなかった。また、就職後に経理という「完璧を求める仕事」に従事したことも、性格に合うものであった反面、完全欲をさらに強化した面もあったと思う。
就職後、執着性をもって仕事と勉学に挑み、社内の中堅管理職登用者の養成研修の試験を受け合格にこぎつけた。研修修了後は、営業所の現場で仕事全体の流れを覚えた後、東京にある本社の経理部に転勤し、みっちり経理(決算)業務を仕込まれた。限られた短いスケジュールの中で、全国集計された経理データを基に貸借対照表や損益計算書といった財務諸表を作成し、公認会計士へ説明をしたり、決算発表資料を作成したりという長時間かつ極度の緊張を必要とする仕事でありながら、20歳代から30歳代前半ならではの体力で完遂し、やりがいは最高であった。1円も間違いが許されないという経理の仕事は私の性格にピッタリだった。
その後、およそ2年毎に九州と本社を交互に転勤しながら、35歳で係長、39歳で課長と昇格していき、理想の課長を目指して意気揚々であったが、そのうち、転勤先の職場において、年上ばかりの部下と人間関係がうまくいかなくなり、反発を受けることが増えた。本社の仕事をしてきた自負が傲慢な態度と受け取られたかもしれないし、部下に本社と同じ完全さを求めて追いつめてしまったのかもしれない。そうした人間関係のストレスのためか、40歳になった頃から下腹部にときどき鈍痛を感じるようになり、泌尿器科病院をいくつも回ったが、すべて「異常なし」だった。
「うつ」と診断されて入院した頃
そして、ある職場では上司(部長)のパワハラにあうことになった。やはり私の態度に問題があったのか、「お前の仕事が嫌いだ」と言われ、何も問題が無くても毎日のように怒鳴られた。部下も遠巻きに見ていたので、私は、「職場の人々から嫌われている」、「課長としてやっていけない」という否定的な感情と怒鳴られる恐怖でだんだん顔を上げられなくなった。そして絶え間ない緊張感から疲れ果ててしまい、会社を辞めたいと思うようになった。次の職場でも、上司から同じような目にあった。
そして、私の人生はさらに暗転する。2008年12月、それまで長く勤めた経理から営業の職場に、熊本に初めての単身赴任をすることになった。仕事の内容に不慣れなうえ、160名の社員をわずか4人の課長で管理するという困難な組織で、上司と部下の板挟みで悩むことになる。上司からの理不尽な業務命令には抗うことができず、部下には無理な仕事を強いることができなかったのだ。結局ひとりで抱え込まざるを得ず、50歳になっていたにもかかわらず、若い時と同様に夜遅くまで残って仕事をした。すると、睡眠不足と過労で身体がいうことをきかなくなり、ついに会社へ行けなくなった。そして、「自分は課長として不適格」、「会社を辞めざるをえない」、「死んだ方がましだ」という自己否定に至った。
産業医の診察を受けて、「人生は仕事がすべてではない。まず仕事を休みましょう。」と諭され、2010年10月に心療内科に行き、「うつ病」と診断されて入院することになった。初めての休職である。それから5か月、薬物療法と点滴を受けながらベッドで寝てすごしたが、冬場だったので病室が寒かったので、夜中に1時間おきに起きてトイレに行く「夜間頻尿」になった。尿意が気になり、尿意がそれほど強くなくても行かなければ気持ちが悪く、何度もトイレに行ってしまうのであった。
2度目の休職
入院の結果、身体は休養できたので復職となったが、自己否定感は変わらず、「うつ病」が治癒したわけではなかった。また、体力は以前より確実に落ちていた。
復職したのは別の営業の職場で、半日勤務から始め4か月かけてフルタイム勤務に回復したところで、職場全体の企画・総括をする課長になった。「今度こそ仕事も人間関係も上手くやろう」と意気込んだが、上部組織からメールで山のように送られてくる周知・報告・とりまとめに毎日追われるのは、病み上がりの身には荷が重かった。やがて、仕事がさばききれなくなって上司から叱責されるようになる。積み残されていく仕事の重圧に精神的に潰れて、2011年12月、2度目の休職となった。
産業医や職場復帰援助プログラムの仲間との出会い
産業医から「再発しないために、心理療法を受けること」を勧められた。これが、私の転機になった。
産業医の勧めで、当時、家族の住居があった東京のN病院の精神科に通院することにし、併せて同院の「職場復帰援助プログラム(RAP:Rework Assist Program)」に参加させてもらうことになった。
このプログラムでは毎日をどう過ごしたかを表に記載して一週間おきに提出するほか、基本的に月曜日から木曜日までの午前中に作業プログラムが用意され、体調の回復に応じて参加日を一日から増やして最終的には通して参加できるようになって卒業となる。作業プログラムは、エクセルなどのパソコン課題、心理教育関係の本を読むテキスト課題のほか、軽く身体を動かし球のやりとりを楽しむ卓球、復職に向かって心配なことなどをテーマにしたグループディスカッションなどだった。
別日程で「認知行動療法」の学習もあった。「全か無か思考」、「自責思考」、「べき思考」、「過度の一般化」のような”認知の歪み”に気がつくのに有効だった。
これらのメニューを直接指導する作業療法士や臨床心理士からは「焦らず、あわてず、あきらめず」、「合格点は60点」といったストレスとうまくつきあうための智恵を多く学んだ。さらに、RAP参加者の先輩方から暖かい言葉と態度で接してもらえたので、おのずと自分も後輩の皆さんの相談にのって励ますなど回復に寄与するようになり、大きな自己肯定感を与えてもらった。
「森田療法」との出会いと回復のきっかけ
RAPに参加していた頃、おかげで気分の落ち込みはだいぶ無くなってきたが、夜間頻尿はなかなか収まらなかった。何かいい本がないかと書店で探していたところ、偶然、森田療法関係図書『実践・森田療法』(北西憲二著)を見つけた。これが私の森田療法との思いがけない出会いであった。私がこの本を読んで一番驚いたのは、症状を「取り除く」のではなく、「受け入れる」と書いてあったことである。
「不安、恐怖、気分、症状、そして自分と自分のうちなる自然をありのままに認め、そのまま受け入れることです。そして、自然な自分の欲望(生の欲望)をすなおに発揮することです。つまり、自然の真理に気づき、それをありのままに認め、それに従ってゆくことです。」(『実践・森田療法』p.40~41)
これまで、症状をどうしたら「取り除く」ことができるか、ということばかりを考えてきた私にとって、天地がひっくり返るような思いがした。そして、本を読むうちに、自然な生き方を大事にする、「受け入れる」人生観に大いに共鳴していった。
そこで、「自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)」のホームページを見て、勇気を出して集談会(森田療法を学習し体験交流する場)に出かけてみたが、そこに集まった方たちは思いのほか優しく親切で、私の体験談を丁寧に聞いて下さり、とても安堵感を覚えた。そこで、2012年4月に自助組織「生活の発見会」に入会し、集談会に継続して参加するようになった。集談会では、会員の皆さんに私の体験に共感してもらえ、勇気づけてもらったおかげで、これまで否定してきた面を次第に「受け入れる」ことができたように思う。この「森田療法」との出会いは、本当に奇跡的なもので、とてもありがたく、ここから心の状態は急速に回復することができた。
2度目の復職そしてフルタイム勤務
そして、約1年の休職を経て、2012年11月に熊本で2回目の復職を果たした。半日勤務から初めて6時間勤務、そしてフルタイム勤務になるまで1年かかった。その間、簡易な仕事をしていたが、それでも周囲の社員からの呼称は「課長」であり、短時間勤務を義務付けられているとはいえ、忙しそうにしている職場から一人だけ早く帰るのはかなり辛いものであった。特に、目の前の席の女性からは、「こんなにみんな忙しいのに、課長のあなたが早く帰っていいわけ?」と呆れた顔で見られているように思われてしかたがなかった。
私がうつ病から復職したことは、勇気を出して朝礼でオープンにしていたが、やはりどの程度治ったのかは外観ではわからないので無理もないとは思う。産業医からは「早く帰るのは病気の人の”務め”だから割り切りなさい。」と言われていたが、次第にモヤモヤした気持ちが鬱積し、こんな気持ちがずっと続くのであれば、「きっぱりと会社を辞めなければならない」と思うようになった。
そうしたある日、私はその女性に、思い切って「私はもう退職した方がよいと思っているのですが。」と告げた。すると、「いや課長、そんなことを言わないで下さいよ。」と全く予想外の答えが返ってきたのである。彼女と話したところ、自分が周囲から疎まれているとの思い込みをしていたこと、病みあがりなりに仕事に励んできたことを認めてもらえていたとわかり、涙が出そうになった。
私は、このエピソードをかみしめつつ、課長の職責は果たせないし長時間の労働はできないことを受け入れて、目の前のできることを一生懸命にすることに努めることにした。しばらくして、そのためか体調が整ってきたこともあり、2013年7月にフルタイム勤務となった。
森田療法を体系的に学ぶオンライン基準型学習会への参加
その頃、森田療法について、もっと体系的な学習をしたいと思い、2013年4月から3か月間、「第12回オンライン基準型学習会」に参加した。対面式の「基準型学習会」(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)は東京、大阪など大都市でしか開催されないからである。
オンライン基準型学習会は、インターネット上の電子掲示板に毎週、森田療法理論についてのレクチャー(解説)と課題が出され、参加者それぞれが回答を書き込み、インストラクターや他の参加者がコメントする学習会である。メリットは、時間にも場所にも制約されないこと、文字でのやりとりは具体的な表現が求められるため頭の整理ができること、書くことは自分自身に話しかけることでもあること、参加者全員の書き込みが残るため何度でも読み返すことができることである。
わかりやすいレクチャーを読んで森田療法理論を体系的に学ぶと共に、参加者それぞれの体験の開示、感想や質問など暖かい交流を行うことにより、皆それぞれの悩みを背負って生きているという平等観を得ると共に、自分を見つめ直し、「受け入れる」ことの大切さ、森田療法の自然な生き方を知った。本当に有意義だったと思う。
また、放送大学と産業カウンセラー養成講座で心理学やカウンセリングを学んだ。病院や、オンライン学習会などでの温かいご支援に感謝し、私にも周囲の方々のためにできることはないかと考えた末、集談会や職場などで心理学やカウンセリングの知識が役に立つのでは、と思ったからである。
退職を経て
前述のように、2013年7月にフルタイム勤務になったが、折悪しく、同じタイミングで新しく発足したグループ会社に移ることになった。そこは、まだ発足したばかりで制度が整っておらず、試行錯誤で仕事をせざるを得なかったこと、発足時の大量の仕事に対して社員数が不足していたことなどから、仕事を進めていくのに苦労し、2013年12月に再び疲れが溜まって倒れてしまった。
そのため、3回目の休職となり、熊本にあるS病院精神科のRAPに通うことになった。1年間かけて次第に身体の状況は回復していったが、元の職場で再び課長で仕事をしていく自信を取り戻すには至らなかった。また、課長という、社員の手本にならなければならない職位にいる者が通算3回も休職していることも恥ずかしかった。そこで、ついに2014年12月末、56歳で退職することを決意し、退職届を出した。将来への不安はもちろんあったが、自分の現在の能力と自分を取り巻く環境からして、自分が考える「課長の責務」を果たしていくことはできないことを受け入れ、新たな生き方をしていきたいと思い切ったのである。私を苦しめた葛藤は、課長としての「かくあるべし」だったのだろう、退職した後は、症状は消滅した。
その後は、自助組織「生活の発見会」熊本集談会の幹事として、集談会の森田療法理論学習では講師を行い、体験交流では参加者が悩みを話しやすいように雰囲気作りに心がけているほか、九州支部・支部委員として、他県の集談会の皆さんとも楽しく交流している。さらに、思いがけず、2017年4月から「オンライン基準型学習会」のインストラクターを務めることになり、感動と学びをもらいながら、全力を尽くしている。
また、日本森田療法学会にも参加している。きっかけは、2017年に熊本大会で体験記を発表したことだった。学会で多くの方々と出会い、幅広い研究内容に刺激と学びをもらっている。こうした発見会の活動をとおしてやりがいを持ちながら、今後とも悩める人たちのお役に立っていきたいと思っている。
これまでを振り返ると、「うつ」で悩んでいた頃にはこのような幸せな日がくるとは夢にも思わなかった。これまで、嫌なこと、辛いこともたくさんあったが、それも人生のうえで避けることができない自然なことであり、さらに言えば、今の自分にたどりつくのにどうしても必要なことではなかったのかと思えて、自分の性格を含めて人生を肯定できるようになった。
今は、「現在の、変えようがない“森田療法で言うあるがまま”の自分で、できるだけのことをしよう。自然の流れに乗り、ささやかな人生を生きていきたい。」と考えている。 以上
NPO法人生活の発見会は、医療機関でないため、薬を使わず根本的に神経症(パニック・社交不安・強迫・不安症など)に対処する「森田療法」が学習できる自助組織です。
全国120の森田療法協力医と連携し、神経症でお悩みの方を支援しています。
以下動画では、森田療法について詳しく解説しているので、ぜひご覧ください。
和田秀樹先生のYouTubeチャンネルで当コラムを監修している「生活の発見会」が取り上げられました。