森田療法で人生数々の難局を乗り越えて~パニック症(パニック障害)、不安症(不安障害)~
パニック症(パニック障害)、不安症(不安障害)の発症
私は現在68歳で、主人と二人で生活しています。35歳の時にパニック症(パニック障害)を発症しましたが、その頃は、主人の両親、子供3人との7人家族でした。
私は昭和32年、愛知県の田舎町で生まれ、父は高校教師で、両親ともに教育熱心でプライドの高い人でした。私には3歳上の兄がいて、兄は長男で跡取りとして、とても大切に扱われました。
その上、兄はとても優秀だったので、両親の兄への期待は大きく、私はオマケの子のような存在であることを、無意識のうちに受け入れて育ったと思います。そのせいか、とても劣等感が強く、自己肯定感も低かったのですが、負けず嫌いでもありましたので、人に認められたいという欲求は強く、頑張り屋でもありました。兄の後を追いかけて大学まで進み、そこで知り合った今の主人と、24歳で結婚しました。
主人は次男だったのですが、跡取りだった長男のお兄さんが28歳で病死してしまい、主人は病気がちな両親を助けるために、企業への就職を諦めて家業を継ぎました。私の両親は、環境のあまりにも違うこの結婚に賛成ではありませんでしたが、最後には黙って送り出してくれました。
そのため、私の中には、どんなに辛いことがあっても、絶対に実家の両親に愚痴を言ってはならない、頼ってはならないという感覚を持ちました。この「かくあるべし」にがんじがらめになっていたので、私はずっと、実親に愚痴や弱音を言うことはほとんどなく、自分一人で我慢してしまう人生を送ってきました。
結婚してすぐに子供が欲しかったのですが妊娠できず、母親になっていく周りの友達に、努力ではどうにもならない劣等感を味わいました。その後の不妊治療で双子の男の子を授かりましたが、長男は仮死状態で生まれてすぐに保育器へ、次男は生後6日目に突然死していましました。この時私は26歳、この状況を受け止めきれず、この辛さを感じきることも恐ろしく、感情がフリーズしてしまいました。この世には、病気や死など、努力ではどうにもできないことがあるということを、思い知らされる出来事でした。この出来事が、私の中のどうしようもない不安感や恐怖心の根っこになったのかもしれません。
その後、長女と三男が授かりましたが、幼い3人の子育て、7人分の家事、家業の手伝いもして、身体は睡眠不足もありでかなり疲れていました。
そこに、義父と義母が相次いで入院、手術となり、そのお世話も嫁として完璧にやろうとして頑張り、35歳の時、呼吸ができないという発作(パニック症・パニック障害)を起こしてダウンしてしまいました。医者のハシゴをして、日赤病院で心臓から肺から脳まで検査をし、出た結果は異状なし、精神科に回され、激しいショックを受けました。病名は、不安症(不安障害)、心臓神経症でした。
森田療法を学ぶ自助組織「生活の発見会」との出会いと集談会への参加
処方された抗不安薬、抗うつ薬で、激しい症状は緩和しましたが、常に予期不安がつきまとうようになり、大量の薬を飲まなくては、玄関から一歩も出られなくなっていきました。そんな状態になっても、主人にも親にも頼ることができず、薬の量はどんどん増えていき、自分が廃人になるのではという恐怖と共に、「私の人生、これで終わってなるものか!」という負けん気の強さで、本屋で調べて、3年後に自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)にたどり着きました。
初めて参加した自助組織「生活の発見会」が全国で運営する集談会(森田療法を学習し体験交流する場)で、亡S相談役が個人面談をしてくださり、発作の恐怖で震えている私に、「薬を飲んででも、今日ここに来られたではないですか。薬はあなたにとって歩くための杖です。家の中に閉じこもってしまうのではなく、来月も薬を飲んで集談会に来てください。」と優しくおっしゃってくださいました。
それは今まで、向精神薬を飲んでいる自分を自己否定していた私に、そのままのあなたでいいと、すべてを受容していただいた言葉でした。この時に、S相談役に受容していただいたことは、今、発見会活動をする中で、私の原点になっています。
集談会で最初に学んだのは、森田療法でいう「精神交互作用」「目的本位」「恐怖突入」です。でも、頭では理解できるのですが、目的本位に行動しようとしても、襲ってくるパニック発作の恐怖に足がすくみ、やはり行動は広がらないままでした。私のような重症のパニック症(パニック障害)は、森田療法では治らないのではと感じました。
自助組織「生活の発見会」に入会して半年後、新聞の新刊紹介で、「不安恐怖症 パニック障害の克服」という本を知り、その本を書かれた名古屋のパニック症(パニック障害)の専門医と出会うことができました。私のパニック症(パニック障害)の症状が良くなったのは、この専門医との出会いと、処方された適切な薬のお蔭です。でも、集談会に出続けたのは、ここまで自分の身体を追いつめてしまった根っこを知りたかったし、そこを解決したかったからであり、集談会の仲間の励ましが、行動を拡げる原動力になったからです。
入会して1年後に、主治医から、「パニック症(パニック障害)の患者会を作りたいので、世話役をやって欲しい」と頼まれました。森田療法に背中を押されて、即引き受けました。このパニック症(パニック障害)の患者会を5年ほど運営し、全国からの電話や手紙を受け、3ヶ月に一度会報を発行し、集会を開き、テレビにも出ました。話をしたパニック症(パニック障害)の人は2000人以上、こんなにも多くの人が、一人で辛さを抱え悩んでいました。たくさんの優しい人にも出会いましたが、トラブルも絶えなくて、人間不信になるような出来事も何度も経験しました。トラブルの根っこにあった感情は、寂しさだったり、怒りだったり、妬みだったり、そして共依存も経験しました。そして、妬みの感情の奥にあるのは、深い悲しみがあると感じました。
子育てと4人の同時介護の生活
患者会を締めて1年後、私が45歳の時、実父が交通事故で大怪我をして半身不随になり、その後、義父、義母、実母と次々と病気になり、4人の同時介護に走り回る生活になり、それは14年にも及ぶことになりました。その頃、主人は仕事が大変で、家のことも、子育ても、4人の親の介護も、すべて私に任せっきりでした。私はモヤモヤしながらも、たぶん「かくあるべし」で、それの状況を受け入れていました。でも、子供たちも過呼吸発作を起こしたり、鬱病になって大学院を中退したりと心配事が絶えず、4人の親たちもどんどん状態が悪くなり、私の負担は増していきました。
52歳の時、目的本位の行動の森田療法に限界を感じ、集談会の仲間の紹介で心理学院に入り、森田療法以外の学びをすることにしました。前半の講義と後半の実習でしたが、講義の内容を理解するのに、自助組織「生活の発見会」での学びと患者会での経験は、とても役に立ちました。感情と思考の違いを学んだ時、森田療法で言う純な心、初一念だと思い、交流分析で禁止令を学んだ時は、森田療法で言う「かくあるべし」だと思いました。幼少期のトラウマや人格障害の学びをしている時は、患者会でトラブルを起こした人たちの顔が次々に浮かびました。3年間、心理学院に通ったことで、逆に森田療法が分かり、私の気持ちも森田療法に戻っていったように思います。
森田療法を体系的に学ぶ「オンライン学習会」のインストラクターになって
同時期に、自助組織「生活の発見会」のほうでは、オンライン学習会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)のインストラクターをやってみないかと声をかけていただき、カウンセラーの資格も取ったことだからと、軽く引き受けてしまいました。
でも、オンライン学習会が始まり、すぐに後悔しました。インストラクターとしての自分のレベルの低さに強い劣等感を感じ、受講生の皆さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。他の3人の先輩インストラクターの方の深い森田療法の理解、受講生の方への優しい受容と共感の言葉に触れ、私の森田療法の理解が、本当に浅くて初歩的な段階で止まっていたことが分かりました。
13年間、私は地元の集談会で何を学んできたんだろう、ただ惰性で参加していただけ、薬の力も借りて何となく行動できるようになっただけ、少し心理学を学んだからと調子に乗っていた自分が恥ずかしく、良いコメントを書きたいと思っても、私の力不足、勉強不足は、すぐにどうにかなるものではありませんでした。
このあと、もっと学びたいという欲求は強くなり、集談会、心理学院でも熱心に取り組み、他にも気になったセミナーに出かけたり、本を読んだり、50代は学ぶことが楽しかったです。
思考と感情の違い、インナ―チャイルドやアダルトチルドレンの学び、バウンダリー(心の境界線)の学び、共依存、アサーション、アドラー心理学、引き寄せの法則などを学び、その後はマインドフルネスにも通いました。そんなすべての学びが、私の中で森田療法と融合し、自分を縛り、苦しめてきた問題にも取り組むことができました。
森田療法と長年縛ってきた「役割人間」の自覚と解放
私を長年縛ってきた「役割人間」ということ、主婦として、母として、嫁として、娘として、そして仕事もと、自分の役割を完璧にこなさなくてはならないになり、自分自身を無くしてしまい、パニック症(パニック障害)にまで追いつめてしまった根っこを見つめ、自分の蓋をしていた感情を感じ、そんな作業に、いつも森田療法が優しく寄り添ってくれたと感じています。心理学院で、「自分を縛る罪悪感はゼロにしなくてもいいし、ゼロにはならないし、ゼロにしてはいけない。自分が楽になるレベルまで減らせばいい。」と教えていただいたことは、森田療法の「かくあるべし」の捉え方も変えました。「かくあるべし」も無くさなくていい、生きていくのに必要があってできたもの、自分を守ってきてくれたものと思えるようになり、自分が感じていることを大事にしながら、必要に応じて緩めるだけで、ずいぶん楽になることを体感しました。
こんなふうに、さまざまな学びをしながら、集談会の仲間に支えてもらいながら、4人の親たちの介護も無事に終わり、子供たちも独立していきました。60歳過ぎて主人と二人になり、さぁ、これからは自分のために生きよう!と思ったのですが、具体的に何も思い浮かびませんでした。そうするとまた、自分は趣味と言えるものもなく、特別やりたいこともなく、何てつまらない人間なんだろうと、また自分を否定して責めたくなる私が出てきます。主人と一緒に映画に行ったり、美術館に行ったり、友人と旅行に行ったりと、細やかな楽しみをし始めた頃、コロナ感染拡大で、気軽に出かけることもできなくなりました。
自助組織「生活の発見会」でも、ZOOMの集まりや学習会が増えていきました。そんな中で、私は人との心の交流こそが、自分が一番求めていたものだと気がつきました。
私の人生は、4人の親や3人の子ども、仕事も訪問ヘルパーをしてきて、人のお世話ばかりしてきました。「ねばならぬ」の思いに縛られてやってきたと思っていたことが、私の心の奥の本音の部分で、一番望んでいた生き方だったんだと気がつきました。神経症の私は、人との関わりの中でストレスをため、パニック症(パニック障害)を発症しましたが、実両親との関係性も、義父母との関係性も、3人の子育ても、本当に悩んだり苦しんだりの対象ではあったのですが、その関りの中で、学び、気づき、助けられ、支えられてきたのだと、改めて気づきました。森田療法の「思想の矛盾」に苦しむ頃に掲げていた「理想の自分」は、「かくあるべし」が作り出した「理想の自分」であり、それが今では、行動するとともに、自分の感情にもしっかり向き合うことで、「理想の自分」も本来の自分の欲望に沿ったものへと、少しずつ変化してきたと感じています。「役割人間」であるという「かくあるべし」は、私の行動の背中を押してきたことも事実であり、それに助けられ、支えられてきたことも確かにあったという事実。そして、自分にも、発見会で出会ったすべての人に、あなたの人生は何一つ否定しなくてもいいですよと言いたいです。
NPO法人生活の発見会は、医療機関でないため、薬を使わず根本的に神経症(パニック・社交不安・強迫・不安症など)に対処する「森田療法」が学習できる自助組織です。
全国120の森田療法協力医と連携し、神経症でお悩みの方を支援しています。
以下動画では、森田療法について詳しく解説しているので、ぜひご覧ください。
和田秀樹先生のYouTubeチャンネルで当コラムを監修している「生活の発見会」が取り上げられました。