パニック障害(パニック症)だった私が、森田療法に出会い〝運のいい人生〟と思えるまで T・Sさん、男性、元教員
初めてのパニック障害(パニック症)の経験
私は幼いころから病弱で、2ヵ月ほど学校を休んだこともあり、病気には人一倍敏感でした。
パニック障害(パニック症)を発症したのは、教師になって12年目の春です。5年生のときから多くの課題を抱えていたクラスを、6年生から担当し、思った以上に悪戦苦闘の連続でした。
そんなある日の早朝、いつものように、仕事先に向かって車を運転していたところ、急に心臓の動悸が気になりはじめました。目の前が真っ暗になり、何とも言えない森田療法で言う「死の恐怖」が覆いかぶさってきました。「いったい何が起きたのか?」「ああっ、死んでしまう……」車のなかで、恐怖に押しつぶされそうになりながら、じっと耐え、動悸が収まったころ、すぐに隣町のA心臓外科病院に行きました。そして検査をした結果、心臓には異常はないと言われたのです。
いったんはホッとしたものの、「あの動悸は何だったんだろう?」「目の前が真っ暗になったのはどうしてなんだ?」「また動悸が起きたらどうしよう」といった恐怖感や不安感がじわじわと湧きおこり、頭から離れなくなりました。夜になるとその恐怖や不安感は、口に出して言い表せないくらいの大きさになり、襲ってくるのです。居ても立ってもいられなくなり、病院に頼み込み、入院させてもらいました。そして、仕事には病院から出かけていくようになりました。
森田療法を知る前の地獄の日々
少し落ち着いてきたある朝、また急に、何とも言えない恐怖感・不安感が襲ってきました。それを振り払おうと思ったとき、今度はパニック障害(パニック症)特有の過呼吸に陥り、またしても森田療法で言う「死の恐怖」を味わってしまいました。
今度は、まわりの患者の様子を見るだけで恐怖は頂点に達し、不安が不安を呼び、恐怖が恐怖を呼び、地獄のどん底に陥ってしまいました。
「もう頼るところは、B市に住む姉しかない」。すぐさま姉に電話をかけ、泣きながら状況を訴えました。姉に「すぐにB市に来なさい」といわれると、取るものも取りあえず、妻と二人の娘をつれ、家から400キロも離れた、実家からも近いB市に向かいました。
初めての症状名「不安症(不安障害、心臓神経症)~今で言う「パニック障害(パニック症)」
翌日、姉につき添われて向かった病院は精神科の病院でした。ここではじめて、不安症(不安障害、心臓神経症)~今で言う「パニック障害(パニック症)」と病名がつきました。何とも言えぬ安堵感がありました。得体の知れない症状に名前がついたのが嬉しかったのです。
1カ月近く実家で過ごし、8月下旬、病院で紹介状を書いてもらい、自宅に帰ってきました。私の場合、家より職場にいたほうが安心できました。何かあったらまわりの人が助けてくれるからかもしれません。
そのときは、薬を飲みながらも休まず仕事に出かけ、担任していた6年生の子どもたちを無事卒業させることができました。
運命的「森田療法」との出会い
パニック障害(パニック症)、不安症(不安障害)を発症して2年、症状への不安を抱え、びくびくしながらの生活がつづいていた夏、ふと立ち寄った本屋で目にしたのが森田療法関係図書『心配症をなおす本』(青木薫久著・KKベストセラーズ)でした。
「私と同じ人がいた。同じ悩みを持ち、克服した人がいる!」悶々とした気持ちに一筋の光が差し込んできたのです。何ともいえない嬉しさがこみ上げ、涙があふれてきました。
巻末に自助組織「生活の発見会」(森田療法を学習し不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)の紹介があり、急いで生活の発見会事務局に電話をしたところ、近くで、会員の集まりであるK集談会(森田療法を学習し体験交流する場)が開催されていることを教えていただきました。藁にもすがる思いで参加しました。30年前の8月のことです。
会場には十数名の参加者がいて、私はハラハラドキドキしながら自分の症状について話しました。代表幹事のOさんから、「よく来られました。ここでみんなと一緒に森田療法を学習し、実践していけば、薄紙が剥がれるように、少しずつ良くなっていきます。がんばりましょう」と言われたのを、今でもはっきり覚えています。
集談会(森田療法を学習し体験交流する場)に参加、学習するようになったからといって、症状がすぐ良くなるようなことはありません。他の人の症状に影響され、いろいろな神経症の症状が次から次とへと私を襲い、苦しみました。
そんななかでも継続して集談会に参加し、「森田療法」を学習することで、パニック障害(パニック症)、不安症(不安障害)の成り立ちや森田療法の「行動の原則」などを少しずつ理解することができるようになってきました。今まで雲をつかむようにモヤモヤとし、つかみどころのなかった不安障害(神経症)の正体がわかりはじめ、不安障害(神経症)を克服するにはこの「森田療法」の実践しかないことを確信しました。
そんななか、5年生の担任を任されました。正直、5年生には2泊3日の林間学校があり、引き受けたくなかったのです。校長に辞退を申し入れても、受け入れられませんでした。
とうとう林間学校の日が来ました。「清水の舞台から飛び降りる」覚悟(森田療法でいう「恐怖突入」)で、引率の仕事につきました。
1日目はなんとか無事に終え、2日目は登山でした。山を登ること自体、パニック障害(パニック症)のど真ん中にいる私にとっては地獄の行程です。
「ここは山のなか、発作が起きたらどうしよう……」クラスの先頭を歩く私の頭のなかは、徐々に高まる心臓の鼓動の音だけです。
そんなとき、「T先生のクラスの2人の児童が迷子になってしまった!」という連絡が入りました。途端に私の頭のなかは、迷子になった2人の児童の安否のことで、いっぱいになりました。校長からすぐに「迷子になった児童たちは、ほかの引率者の先生がたに任せ、T先生は登山を続行してください!」との指示が出ました。私は、迷子の児童たちの安否を気遣いながら、登山を続けました。そして、私たちも、無事宿舎に戻ってきました。
この体験をとおして、私は気がつきました。あんなに心臓のことが気になっていた登山前半の私の不安(感情)が、児童が迷子になったという情報が耳に入った途端、迷子の児童たちの安否という新たな不安(教師としての本来の不安)に移行したこと。つまり、今まで持っていた不安(感情)は新たな不安(感情)が生じることにより、消滅(小さくなる)するのを、引率登山という行動のなかで体得したのです。また、あれほど心臓の鼓動が高まっても、現実の対応に心が向かい、発作が起きなかったことで、心臓そのものには異常がないのを改めて確信しました。森田療法でいう事実唯真です。
以来30年、私なりに不安障害(神経症)から脱却したポイントが数点あることに気がつきました。
- 入会当初は、森田療法を熱心に学習していたが、途中から行動することの大切さを指摘される。それ以後、行動に重点をおいて日常生活を送る。
②森田療法で言う「恐怖突入」を何回も行い、「できた」ことを意識的に脳裏にインプットし、自分の自信につなげていった。ときには「6割できればよし」という考えも取り入れた。
- 3日常生活のなかで困難に遭遇したとき、森田療法で言う「あるがまま」「事実唯真」「逃げるな」などのことばを、お経を唱えるように心のなかで唱え、森田療法で言う「恐怖突入」を繰り返した。
- 妻と2人の子どもを養う立場である以上、いろいろな困難があっても逃げ出すことができなかった。いつも「清水の舞台から飛び降りる」覚悟(森田療法の「恐怖突入」)で生活することができた。
- 家族には、パニック症(パニック障害)の症状のことで「グチ」を一言も言わなかった。
⑥森田療法を学習し、学んだことを、素直に実生活のなかで実践するように心がけた。
森田療法は、私の生きる上での大きな羅針盤になりました。今、自分の人生を振り返ってみて「運のいい人生だったな」とつくづく思います。そしてその裏には、大勢の人々の力添えがあります。私を生み、育ててくれた両親、兄弟、私と家庭を営んでくれた妻や2人の子どもたち、一人で眠れない日に快く泊めてくれた友人、悩みを親身になって聞き、支援してくれた集談会(森田療法を学習し体験交流する場)の仲間……。みなさん、本当にありがとうございます。