森田療法で「人間の自然」を学んで取り戻した「自分」 ぼくぼく 女性 自営業
私は二十歳の時に社交不安障害(対人恐怖症)に陥(おちい)って以降、森田療法に出会うまでの約二十年間、強い自己否定感と物事に対する固い考え方に苦しみながら生きて来ました。しかし今から二年前に、自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)に出会ったことにより、今は随分と心が楽になっています。自分の苦しみと、そこから抜け出すきっかけとなった学びについて、ここに記させて頂きます。
私は、両親、二つ上の兄、私、二つ下の弟の五人家族の中で育ちました。私は責任感の強い子どもで、小・中学校では、よく学級委員をやっており、クラスの皆と仲良くしていました。高校では大好きな英語を一生懸命に勉強しました。完全欲が強く、大好きな英語のテストだけは、いつも一番でないと嫌でした。この頃から満遍(まんべん)なく大勢と付き合うのが苦手になり、クラスメートのごく少数とだけ仲良くしていましたが、心が通じる友人と出会えた事に幸せを感じ、充実した日々でした。
将来は、大好きな英語を生かして、世界で困っている人々のために働きたいと夢みていました。そんな想いで大学はアメリカへ留学しましたが、授業についていけず、バカにされ、とても悔しく孤独でした。それでも苦労をわかり合える日本人の友人が出来、心は充実していました。日本から応援してくれる高校時代の親友も大きな心の支えでした。
対人恐怖症(社交不安障害)の始まり~居心地の良かった親友に極度に緊張
大学の夏休みに日本に帰国した際、八ヶ岳の山小屋で二か月間のアルバイトをしました。ここでも多くの仲間ができ、きつい山小屋の仕事もとても楽しい時間でした。このように、人と豊かに関わることに深い喜びを覚えていましたが、その性質が故(ゆえ)に、この後、対人恐怖症(社交不安障害)に陥ることとなりました。この頃、恋愛をしましたが、それがうまく行かなかったことで気分が落ち込み、不安感に襲われるようになりました。そして常に自分の心の状態が気になるようになりました。
ある時、高校の親友に会った時に極度に緊張しました。親友相手に緊張するなど、あってはならないと思い、必死で抑えようとしました。また、何処(どこ)に視線を向ければよいのか、いつ唾(つば)を飲みこめばよいのかが気になり、会話に身が入りませんでした。それ以降、彼女に会うのが恐怖となりました。学生時代は、あんなに居心地の良い友人だったのに、それが失われた悲しみで一杯でした。この対人恐怖症(社交不安障害)の対象が、家族にまで広がったとき、人生に絶望しました。
森田療法との出会い~入院森田療法から理解できたこと
しかし、書店で森田療法継承者である大原健士郎先生の著書「あるがままに生きる」に出会い、私は対人恐怖症(社交不安障害)であることと、これは適切な治療(森田療法)で治るものなのだと理解しました。母に打ち明け、本で紹介されていた浜松医科大学医学部附属病院の入院森田療法を受ける事となりました。
この三か月の入院森田療法により、私は二つの事を学びました。一つは、不安感や緊張感は、それを抑えようとする程、森田療法で言う「精神交互作用(感覚と注意が相互に影響しあって、ますますその感覚が拡大されること)」によって、逆に強まってしまうということ。もう一つは、対人恐怖症(社交不安障害)のとらわれから抜け出す為には、不快な感情も森田療法で言う「あるがまま」に、恐怖から逃げず「目的本位」で行動することがとても大切だということです。私は、対人恐怖症(社交不安障害)に陥った心のからくりを理解し、またそこから抜け出すための生活態度を身に付ける事が出来ました。
森田療法で言う「目的本位」で頑張れば、昔の明るい自分に戻れると思っていた・・
入院森田療法からの退院後、アメリカに戻る事は出来ませんでした。森田療法で言う「目的本位」という言葉だけを胸に、アルバイトや派遣社員などの仕事でなんとか社会と繋(つな)がっていました。外見は健康な明るい人に見えたと思います。しかし、「こうありたい」という高い理想像があり、それにあてはまらない自分に自信が持てず、人が自分をどう思っているか、そればかりが気になりました。人と深く関わりたいと思うのに、内面を知られたら嫌われると恐れ、他人と距離を縮めることが出来ませんでした。「目的本位」で頑張っていれば、いつの日か昔のように明るい自分に戻れると思っていたのに、いつまで経ってもその時は訪れず、なんとかしようと、いつももがいていました。昔の自分を憧(あこが)れの気持ちで思い出しては、惨(みじ)めで涙が溢(あふ)れました。母親に対し「自分は変わってしまった、空っぽだ。生きているのが辛い」と泣きながら相談していました。
好きな仕事に出会い開業へ
こんな私でしたが、退院から十年を過ごす中で好きな仕事に出会いました。研究所の秘書として外国人研究者のお世話をする仕事や、翻訳会社での地道な翻訳作業です。三十歳の頃、研究所の上司から独立開業を勧められ、翻訳事務所をやってみたいと考えるようになりました。母も翻訳の仕事が好きだったので、一緒にやろうと誘いました。小さいけれど丁寧な仕事をする翻訳事務所を始めよう、行政書士の資格を取って、海外の法手続きもサポートできる事務所にしようと考えました。孤独感を抱えながらも、新しい夢を心の支えにして猛勉強をしました。そして三年目の受験で合格し、三十五歳の時に母と共に開業しました。
悔やんでも悔やみ切れない弟との別離
私にはとても仲の良い2歳年下の弟がいましたが、私が開業してまもなく、その弟が亡くなりました。自ら選んだ死でした。私は当時、結婚を控えていたのですが、この事がその後、夫婦の間に深い溝を作ることとなりました。弟は、明るく、優しく、感受性が豊かで、誰にも無いユーモアでいつも素直に自分を表現し、周囲からとても愛されていました。何事に対しても一生懸命で、仕事は誠実に正義感を持って取り組み、得意先から弟を慕(した)って転職して来た人もいました。自然を愛し、休日には友人達に声をかけ、よく山に登っていました。心に壁を作らず、不思議なほど誰とでも心を通わせていました。私ともよく話をし、よく笑いました。その弟が、まさか死を選ぶとは、どうしても信じられませんでした。毎朝起きると、頼むから夢であって欲しいと思いました。でも現実でした。現実と分かった瞬間、涙があふれました。起き上がりたくない、一歩も歩きたくない、生きていたくないと思う日々が続きました。
後に弟の友人から教えてもらい、弟の心には深い悲しみがあったことを知りました。気付いてあげられなかった事への、いくら悔やんでも悔やみ切れない悔しさが、繰り返し激しく心を襲いました。どうして弟は死を選ぶ前に、私に相談してくれなかったのか、なぜ家族をこんなにも苦しめるのか、弟を大好きだった母や私に、今後どう生きていけというのか。そんな思いと共に頭痛がするほど泣き、胃が締め付けられ、吐き気がしました。気が変になってしまえばどんなに楽かと思いました。私が死んで弟が生き返るなら、喜んで死ぬのにと思いました。
理解してほしい人とのすれ違う思い
私は、誰よりも夫に、私の悲しみを解って欲しいと思っていました。しかしそれはとても難しい事でした。夫は一度も弟に会った事がなく、弟がどういう人かも知りませんでした。夫が弟に対して抱いていた感情は、「死を選ぶ事は卑怯なことだ。それに、自分たちが結婚する直前に死を選んだ事が許せない。」というものでした。私は夫に、弟がどんな人であったかを知ろうとして欲しかった。弱い人の気持ちを理解して欲しかった。死を選ぶ程の絶望とはどういうものなのかを、一緒に考えて欲しかったのです。しかし夫の心にあるのは、なぜこの妻はこんなにひどい事をした弟をかばうのか、自分より弟が大切なのか、という感情だったようです。夫もとても苦しかったと思います。この事では本当にたくさんの涙を流しました。
これらの問題に加え、私には神経質者特有の悩みもありました。森田療法で言う「完全欲」が強かったため、家事を完璧にやりたくて、料理の味付け一つで、とても落ち込み、またそんな事で落ち込む自分を責めました。母に「もっと自分に優しくなりなよ」と言われました。「そんなこと、出来ればとっくにやっている。どうすれば自分に優しくなれるか誰か教えて!」と叫びたい気持ちでした。
森田療法を学び合い体験交流する自助組織「生活の発見会」との出会い
私の悲しみを理解してくれない夫を責めると同時に、責めるしかできない自分をも責めていました。自分は空っぽだと感じ、生きている感覚がありませんでした。心は様々な悩みと悲しみで埋め尽くされ、体は緊張で凝り固まり、頭痛や喉の圧迫感が辛くなりました。このような状況が三年ほど続いた所で、いよいよ行き詰まり、自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の自助組織)に駆け込みました。
自助組織「生活の発見会」主催の森田療法を学ぶ「第116回基準型学習会」での気付き
こうして私は発見会へつながり、入会から間もなく第116回基準型学習会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)を受講する事となりました。学習会では、行動森田(建設的な行動を通して、自分を受け入れ、自分らしい生き方を実現すること)では学ばなかった「人間性」、つまり人間とはこういうものであるという事について学びました。頂いた多くの気付きの中でも以下の三つが大きく私を変えました。
基準型学習会で森田療法を更に深く学ぶことでの新たな気づき
森田療法を学び新たな気づきの「一つ目」は、人の感情は自然の一部であるから、湧いてくる感情に対し自分に責任は無い、何を感じても自分を責めないで良いという事です。責めるのではなく、「自分はこう感じる」と自覚することが大切だとういう事です。この事を学んだ後、私は仕事中に不安感に襲われた時、不安と戦わず、「自分は今、こんなに不安である」と客観的に観察する態度に徹してみました。すると不思議な事に、不安に耐える自分を応援するような気持ちになりました。それまでの自分は、すぐに不安になる自分を情けないと思っていたので、この感覚はとても新鮮でした。
森田療法を学び新たな気づきの「二つ目」は、「人間の性格には多面性があってよい」ということでした。私は人からよく「明るく優しく、しっかり者」と言われていましたが、そう言われると、いつも「自分はそんな人じゃないのに。そう見えるのは自分が仮面を被(かぶ)っているからなのか。」と思い、自分を責めました。しかし講師から「明るいと言われるのは、それもあなたの一面であるからです。全然違うと思うのは、自己否定感が強く、暗い面に意識が行きがちだからです。」と言われ、はっと気が付きました。人には色々な面があってよいという、当たり前のように思える事が、それまでの私にはわからなかったのです。いつでも誰に対しても同じ態度でいるべきだと固く信じて生きて来ました。
森田療法を学び新たな気づきの「三つ目」は、強い不安の反対側には必ず前向きな欲求があるという事です(森田療法の核心、不安の片面は欲求)。人と会う前に極度に緊張するのは、その人が好きだから、良い関係でいたいから。失敗を恐れるのは、強い向上心があるから。漠然とした不安感はきっと、人生をより良く生きたいという森田療法で言う「生の欲望」が根底にあるからなのだと理解しました。そう思うと、いままで敵だと思っていた「不安」を大切にしてあげたいという気持ちになりました。自助組織「生活の発見会」初代理事長・森田療法関係図書著者長谷川洋三先生の本には、「不安は生きて行く上で必要不可欠なもの」とまで書いてありとても嬉しく思いました。
体験のなかで深まっていく森田療法の学び
基準型学習会(森田療法を体系的に学習するセミナー)で得たこれらの気付きは、その後、人と関わり様々な感情を体験する中で、徐々に深まって行きました。今でも何か心配になると心の中は息苦しい程の不安の嵐です。不安感はとても不快で嫌なものです。しかし最近は、不安を感じて辛い時は、その不安の裏側にある自分の欲望(森田療法で言う「生の欲望」)を探し、見つめるようにしています。そうすると、不安感への向き合い方が、いたわるような態度に変り、優しく自分の中に包んであげられるようになります。日々の生活の中でそのような感覚を体験しています。また、具体的な「感情」に関してですが、私は、学習会を終えて一年ほどは、自分の中に湧いてくる「嫉妬」のような感情に対し、「こんな事を感じる自分は、やはり嫌いだ」と思う事がよくありました。学習会での学びはどこかへ行ってしまった、と思いました。しかしある時、本当に、とことん自分を嫌いになったとき、突然開き直りの境地に至りました。誰かを嫉妬する気持ちも、嫉妬する自分を嫌いだと思う気持ちも、この情けない自分の感性なのだ、情けないけれど、他の誰でもない自分の心が感じているのだから、大切にするしかない、そのような覚悟が決まりました。そして、それ以来、不思議と、どんなに嫌な感情も、自分の感情として受け止める事が出来るようになったのです。そしてまた、不安感や感情に対してこのような態度でいることが、自分を知ること、「自己理解」につながっていくことに気が付きました。
私はずっと、不安症(不安障害)、特に、対人恐怖症(社交不安障害)になる前の強く明るい自分に戻りたいと思っていました。しかし、自己理解が進み、森田療法で言う「あるがまま」の自分に気が付いた今は、昔の私もきっと、弱虫で強がりな人間であっただろうと思うようになりました。昔の自分は、今とは別の人間とまで思っていたのに、今は同じ人間だと思えます。仕事でも、世界で活躍したいという気持ちは無くなり、身近な人の幸せのために自分を活かし、精一杯働く事が自分の幸せだと思うようになりました。今の仕事を通し、そのような幸せを日々感じます。人間関係については、これまで出会った人との関係を大切にし、これから出会う人とも、あせらず自分のペースで親しくなっていきたいと考えています。
自分の人生の舵を握り、森田療法と共に、丁寧に歩いていく
また、私は基準型学習会の直後に離婚をしました。離婚を迷っている時、自分の人生の「本当の欲望」(森田療法で言う(生の欲望)を見失わずにいられたのは、温かく的確な指導をしてくださった学習会の講師と、森田療法を共に学び、一緒に考えてくれた仲間達のおかげだと思います。一人になってからも、苦しい感情を経験しましたが、今、自分の足で立ち、自分の人生の舵を握っている、そんな感覚があるのは、第116回基準型学習会に参加できたからです。
弟の事については、過去の事と思えず、今もあの日の悲しみがそのまま続いています。悲しみは和らいでは行かず、むしろ時の流れと共に深まって行くと感じます。今も弟がいない現実を理解することが出来ません。弟の同僚や友人達からもらった、弟の生前の様子が書かれた手紙を読むと、その人達にとっても、弟は大切な存在だった事がわかります。そんな大切な命を救ってあげられなかった事がとても悔しいです。悔しいまま、悲しいままに、自分の人生を生きて行こうと思っています。
最後までお読みいただき有り難うございました。