森田療法に出会い、悩みの闇から喜びの夜明けへ 二つの愛を求めて T.K 男性 会社員

朝の来ない夜はない   

真っ暗ではないが、薄暗い闇の中を、私は、長い間、さまよっていた。

欲しいものはあるのに、行き着きたい高みはあるのに自分にはできないと、そこへ向かっていく苦しさからいつも、逃れ、かえって、その苦しみを増していた。

そして、できない自分、否定的な感情に支配される自分を常に責め続けていた。

しかし、永遠に続くかと思われた彷徨の果てに私は、今、たしかな夜明けの光明を見いだした。それは、何と、大きな喜びと希望だろうか、朝の来ない夜はない。

その真実を受け入れられることは。私にとって、このうえもない幸福だ。

森田療法に出会い19年、劇的に変えてくれたこの1年の体験

自助組織「生活の発見会」(森田療法を学びいろいろな不安障害(神経症)から立ち直った人々の互助組織)に入会して19年、53才の私が、体験記を書かせていただくことになるとは、私自身、想像もできないことでした。長い間、治った、楽になったという実感を持つことができずに、惰性で自助組織「生活の発見会」にとどまっていた私を、劇的に変えてくれた体験が、この1年の間にありました。悩みの最中に、いつもいた私が、喜びの世界のドアを少しですが、開けることができたように思います。

私は、なぜ、長い間、苦しまなければならなかったのか、私は、なぜ、劇的な変化を体験することができたのか。

そのことを総括することは、意味のあることだと思いましたので、あえて、恥ずかしさをおして体験記を書かせていただきます。

 私が、発見会で一生懸命、森田療法を学び、熱心に発見会活動を行ってきたにもかかわらず、苦しみ続ける結果になった主な原因は、私の資質によるところが大きいと思いまが、それとともに、私に二つのものが不足していたことが、決定的な要因だと思っています。

不足していた一つは、自分に対する愛、そして、もう一つは、人に対する愛です。

これらが不足していたゆえに、また、これらについて、教えられても、その大切さに気づくことができなかったゆえに、いくら森田療法を学んでも、活動しても、それが、私の血となり肉となることが、無かったのではないかと思います。

しかし、この1年の間に、私は、この二つの愛の大切さに気づきました。その愛の不足を、多少ですが補うことができました。その結果、悩みの闇の中から光明を見いだすことができたのではないかと思います。この二つの愛を軸として、私の、ここまでの歩みを綴らせていただきたいと思います。

私は、社交不安障害(対人恐怖症)ですが、きっかけがあってそうなったのではなく、物心ついた時から、内気で、人を恐れる気持を強く持っていました。小さい頃、友達が家の近くで遊んでいても、その輪の中に、私一人で入っていくことができず、母親に「一緒に遊んであげて」と言ってもらって、やっと、遊びに加われるような状態でした。また、私の家には、頻繁に大勢の親戚の人がやってきましたが、その度に、私は、挨拶をするのが嫌で、自分の部屋に隠れて、親戚の人が帰るのを息を殺して待っているような子供でした。

高校では、テニス部に入りました。テニス部は、私が想像していたものとは、まったくちがって、上下関係も、練習も、非常に厳しいクラブでした。私は、怖い先輩の顔色を、いつも伺い、練習についていけないのではとの不安を抱えながら、ビクビクして過ごしました。

そのような高校1年の晩秋の頃でしょうか、クラブのプレッシャーが体に症状として現れました。私は、喉に違和感を覚えたのです。この違和感が加わったことで、私の心は、ますます暗いものになっていきました。喉の違和感は、1年ほど続き、それが無くなるのと入れ代わりに、激しい肩の凝りを伴った強い疲労感に悩まされることになりました。この病的な疲労感は、自助組織「生活の発見会」に入会するまでの、15年以上に渡って、私を苦しめましたし、発見会入会後も、かなり程度は、楽になりましたが、今も少なからず、私の生活に影響を及ぼしています。

 高校生になって、自分を客観的に見られるようになりましたが、そこにいた自分は、良きものを何も持っていない、どうしようもない人間に思えました。その当時、私は、まわりの人に対して、嫌悪、妬み、蔑み、恐れなどの感情を、すぐに持ってしまっていましたし、人目が気になって、言いたいことは言えず、したいことは、できない閉塞状況にありました。一方、自分は、特別、優秀で正しい人間であるべきだとの強い思いがありました。この理想と現実の、あまりにも大きな落差は、自分がダメな人間であるとの思いを決定的なものにしました。この落差から生じる劣等感にも、ずっと苦しむことになります。

 さきほど書きましたように、私は、物心ついた時から、人を恐れる気持を強く持っていましたので、家族を含めて、人との関わりを極力、避けてきました。人に対する愛や思いやりは、人との関わりの中で、育まれていくものだと思いますが、その人との関わりを避けていては、愛が育つはずがありません。また、両親は、私を愛してくれたとは思いますが、その表し方が、あまり上手ではありませんでしたので、自分が愛されるという実感を持つこともできませんでした。

このように、私は、自分を愛すること(自分を肯定すること)も、人を愛することもできず、誰かに愛されている実感も持てず、人に対する恐れと病的な疲労感を抱えた状態で、本当の意味での人生を歩みはじめることになったのです。この時点から、30年以上に渡って、私は、根本的には、何も変えることができずに、生きていくことになります。このような人生が、どのように虚しく、苦しく、潤いや喜びの少ないものであるかは、容易に想像していただけると思います。

 大学には、一応、入りましたが、3年生の時、病的な疲労感がピークに達し、授業中、眠くて、目を開けていられない状態になりました。当然、まったく勉強ができなくなり、結局、大学を辞めることになりました。その後、通信教育で、教員免許を取りましたが、それを生かして教員になる道は、人(子供達)に対する恐れと、疲労感を理由に、自ら閉ざしてしまいました。

 それでも、自暴自棄にならなかったことは、私にとって幸いでした。気の向かないまま、気の向かない仕事に就きましたが、それは、私が、最も苦手な、常に人と接しなければならない営業の仕事でした。もちろん、このような仕事は、したくありませんでしたが、その時の私には、仕事を選ぶことなどできませんでした。この仕事が、また、私の苦しみを倍増することになります。仕事をしていますと、1日のうち、必ず一度は、漠然とした不安に襲われ、気持が落ち込みます。人の思惑を恐れて、やるべきことから逃げることが多く、そのような自分を、いつも責めていました。また、病的な疲労感は、前向きに行動する意欲を、奪っていました。

就職してから、自助組織「生活の発見会」に出会うまで、10年ほどの期間がありました。この10年、私は、自分を愛することも、まわりの人を愛することもできず、ただ、与えられた仕事の最低限以下のことを、ビクビク、ハラハラしながら、時には逃げながらやってきました。それが許される会社だったことは、私にとって幸運でもあり、不幸なことでもありました。なぜなら、そのままの状態を、ずっと続けることになってしまったからです。

その間、私を支えていたものは、このような状態から抜け出して、何とか、正しく前向きな人間になりたいという思いでした。そのために、自分なりに努力したつもりですが、それは、行動することではなく、感情を頭の中で変えようとする間違った努力でした。人に対する、嫌悪、妬み、蔑み、恐れの感情をなくし、仕事をはじめ、すべてのことに対して、やる気のない感情を、やる気のあるものにしようとしました。

もちろん、頭で考えただけで感情を変えられるはずはなく、いつも、挫折をして落ち込むことになります。そして、また、何かをしなければと思い立ち、努力を始めるのですが、結果は、同じ過ちの繰り返しでした。このように出口を求めて、さまよう日々が続きました。

森田療法との初めての出会い

 そして、ついに自助組織「生活の発見会」に出会う日が、やってきました。長谷川洋三(自助組織「生活の発見会」初代理事長)著森田療法図書の「行動が性格を変える」を図書館で見つけたのです。

そこに書いてあった『感情は意志の自由にならない、自由にならないものを、自分に服従させようとしても苦しむだけである。大切なことは、意志の自由になる行動を変えていくことである。』という考え方は、私の目を開いてくれました、生きる希望を与えてくれました。

そして、すぐに入会、私は、発見誌(生活の発見会が発刊する月刊誌)や森田療法関係の本を読むことだけで、楽になれると安易に考えていました。人に対する恐れの強い私は、誰も知り合いのいない、発見会の集まり(集談会~森田療法を学習し体験交流する場)に参加することなど、怖くて、まったく考えも及ばないことでした。

しかし、本を読むだけで、私は気づきや変化を得ることはできませんでした。生活の発見会でも私は救われないと落胆し、1年で退会してしまいました。だからといって、他に私を導くものがあったわけではなく、それから3年間、悶々とした日々を過ごすことになります。そして、どうしようもないところまで追い詰められた時、私は、自分を救うものは「生活の発見会」しかないことを、身に沁みて感じ、今度は、覚悟を決めて、「生活の発見会」に再入会しました。

再入会後は、すぐ自分を奮い立たせて、やっとの思いではありましたが、初心者懇談会に出席しました。この行動は、私にとっては、森田療法で言う恐怖突入の極みと言ってもよいほどのものでした。この凄まじい恐怖突入は、たしかに私の中に変化をもたらしてくれました。

そして、すぐN集談会に出席、間もなく幹事となり、集談会活動に積極的に関わっていきました。私は、もともと、会の運営のような活動が好きでしたので、まさに、水を得た魚のようでした。集談会活動は楽しい、仲間はできる、森田療法の教えは、心地よく耳に入ってくる、多少は対人緊張する場面で行動もできる。最高に充実した毎日に感じられて、私は、症状が改善して楽になったように思いましたし、実際、病的な疲労感は、かなり軽減しました。

 このように、とても高揚した気分でいた、再入会して2年目くらいの頃でしょうか、私は体験記を書きました。この体験記の中に、当時の私が森田療法を、どうとらえていたかが、よく表現されていると思います。

「目的へ向かって歩いていくことなしに何も変わらない」

「ハラハラしている気分を変えてから営業するのではなく、不安を持ったまま営業する」

「嫌々でも営業できた自分を認めていく」

「嫌でも苦しくても、具体的な行動を続けていくことによってのみ、成長した自分に出会える」

たしかに、ハラハラ、不安、嫌々という感情を変えようとしないで行動していくことに重点をおいています。どのような感情を持っても、行動できた自分をほめようとしています。このようにして行動を続けることができれば、私は症状を克服できたことでしょう。また、実際、このようにして症状を克服した方も、大勢、いらっしゃると思います。

しかし、私は、行動し続けることができませんでした。

その原因は、自分では、充実していると思っていた時でも、私に欠けているものが二つあったからだと思います。一つは、自分に対する愛、私は、自分の感情を受け入れて、自分を肯定することができませんでした、いつも、自分をダメな人間だと思っていました。自分を否定していては、行動にブレーキがかかってしまいます。

もう一つは、人に対する愛、私は、「生活の発見会」の仲間にさえ共感を持つことができず、常に劣等感や優越感というフィルターを通して、まわりの人を見ていました。その結果、人のために行動しようという意欲は湧いてきませんでした。もちろん、まったく行動できなかったわけではありませんが、逃げてしまうことが圧倒的に多かったように思います。

私の森田療法の理解は、行動を続けることが前提でしたから、行動できなければ何も始まらないし、少しも前に進まないことになってしまいます。高揚した気分は、日常生活の中で、特に仕事に関して、なすべき行動ができないことで、徐々に冷めていきました。それとともに自分を否定する気持や罪悪感は増していきました。ただ、集談会(森田療法を学習し体験交流する場)を運営する活動は楽しく、充実感がありましたので、そちらにエネルギーを集中し、自分が森田療法を実践し進歩しているような錯覚を持ち続けていました。

6年前に父が亡くなり、同時に母が寝たきりになりました。私は、集談会に参加することができなくなり、この錯覚から現実へ、嫌でも目を向けざるをえなくなりました。その時、私は、長い間、「生活の発見会」で活動しても、ほとんど変化していない、楽になっていない自分を、強く意識させられました。そして、発見会への期待が、急速に失われていきました。その後は、発見誌すら、ほとんど読まず、発見会の動きを知ることもなくなりました。

私が、長い間、苦しまなければならなかった原因の一つは、自然に湧きあがってくる感情に対する、私の態度にあったと思います。

私にとって、仕事で営業から逃げてしまうことが、一番、大きな問題でした。対人緊張が非常に強く、人から常に良く思われることを望み、人に不快感を与えることを極端に嫌う私が、相手が必ずしも欲しいとは思っていない商品を売る営業は、いつでも、物凄いプレッシャーを伴う行動でした。

そのプレッシャーに打ち勝って営業できたとしても、私は、このような嫌な感情は、二度と味わいたくないという思いを持ってしまいます。また、営業する時に緊張し、逃げたいと感じる自分は、ダメな人間だと、自分を否定してしまいます。行動(営業)できた時でも、そのような状態ですから、できないで逃げてしまった時は、自分を否定する気持は、さらに強くなります。また、予期不安で、営業することに恐れや、抵抗感を持ったことだけでも自分を否定することになります。

このように、もともと、自分を愛することができなかった私は、自分を否定する現実が、いつも、目の前にありましたので、自己否定感は、どんどん強くなっていきました。自分をダメな人間だと思い、自分のマイナス面にだけ、注意が集中していましたので、ますます行動することが難しくなります。再入会して18年ちかく、私は、このような状態で生きてきました。

 ところが1年ほど前、私は、最近の発見会の流れが変化していることを知りました。ほとんど読んでいなかった発見誌を読み直し、初めて、森田療法学習のテキスト「新版 森田理論学習の要点」にも触れました。

この時、私が気づいたことは、私が今まで、ずっと感情を大切にしてこなかったという事実です。私は、行動を最優先して、感情は脇に置きたいと思っていました。余計な感情が、私の邪魔をするので行動できないと思っていました。そして、湧きあがってくる感情は、いつも否定していました。

私は、毎月、森田療法の勉強会で、森田療法創始者の森田正馬全集第5巻だけは読んでいましたが、森田先生の言葉の表面的な理解しかできていませんでした。ところが、「ずっと感情を大切にしてこなかった」という気づきの後で読んだ森田先生の言葉が、初めて、心に沁み込んできたのです。

 『今の読書の問題は「遊びに行きたい」という欲望と、「勉強しなければならぬ」という努力とを、そのまま我々の心の事実と認め、これを両立させて自由に開放、発展させて置くと、悪知はなくなって、必要に応じては、楽に勉強もでき、さほどの必要もなければ、愉快に楽しく遊びに行く事ができて、心に拘泥がなく、自由に適切に、その行動を選ぶ事ができるようになる。』 (5巻 359ページ)

私に当てはめますと、逃げたいという欲望と、営業しなければならないという努力を、そのまま私の心の事実と認めてよいということになると思います。私は、今までずっと、逃げたいという欲望を持ってはいけないと思い込んでいました。そして、そのような欲望を持ってしまう自分を、ダメな人間だと思っていました。

でも、森田先生は「逃げたいと思っても、いいんですよ。」と言ってくれているのです。しかも、その後に「我々の心の事実を否定しようとする不可能の努力となって、これが悪知となるからである。」と、逃げたいと思ってはいけないと考えることが不可能の努力であり、悪知となると言ってくれました。

このように森田先生の言葉が、ストレートに私の心に入ってきました。そして、心の事実を否定しなくていいんだと、素直に思えました。

 森田先生の言葉を深く感じた数日後、私は、飛び込み営業という、最も緊張し逃げたいと強く感じる場面に遭遇しました。いつもの癖で、緊張し逃げたいと感じたことで気分が沈み、このような感情を持ってはいけないと思いました。

その時「あなたの心の事実を否定しなくて、いいんですよ」という森田先生の言葉が、私の脳裏に稲妻のように閃きました。

これが「そうか、このような感情を持ってもいいんだ」と心から気づいた瞬間です。緊張することも、逃げたいと思っていることも、悪いことではなく、湧きあがってきた自然な感情なのだから、ただ、感じていればいいんだと思えました。すると、それまでの苦しさが、スッとなくなって、安らかな気持になれたのです。そして、心と体が自由になったような気がして、とても行動しやすくなりました。 

この時、私が行動し続けることができなかった真の原因は、心の事実を否定し、自分を否定し、自然な感情を受け入れられなかったことにあると確信しました。つまり、自分を愛せないことが、行動し続けられない原因だったのです。

 私は、この感情についての気づきを確かなものにしたくて、たまたま、昨年の5月末から3カ月間、行われた、本部主催のオンライン学習会(自助組織「生活の発見会」が主催する森田療法を体系的に学習するセミナー)に参加しました。オンライン学習会はインターネットを使った基準型学習会です。新・要点の単元を学びながら、受講生、インストラクターが、インターネット上で、自由に会話を交わします。

オンライン学習会の特徴は、参加者の誰とも顔を合わせることがないということです。顔を合わせないことの良いところは、本音が語りやすくなることです。私は、顔を合わせては、とても言えないような自分の弱さを、正直に告白することができました。また、他の参加者も、「ここまで言っていいの」と思えるようなことを、赤裸々に書き込んでいました。ごく自然に、本音の会話が交わされていったのです。

本音の言葉には力があります。伝わってくるものがあります。それに感想や励ましの言葉を書くことは、相手に対する表面的な理解ではできません。どうしても、相手の状態、相手の悩みを自分の中に入れて、それを深く理解するように努めなければなりません。このような作業を、繰り返しているうちに、相手に対する理解が、どんどん深まり、共感へと育っていったのだと思います。

共感が持てると、相手のことが自分のことのように感じられて、心から励ましたい、元気になってほしいと願うようになりました。この変化は、私にとって、劇的なものでしたし、とても、うれしいものでした。

共感することは、人を愛することだと思います。人を愛する気持を持てるだけでも、うれしく、心満たされることです。さらに、その人のために励ましたり、具体的な行動をすることができれば、その喜びは、さらに大きくなります。

また、人のために何かをしたいという気持は、行動の原動力になります。人を愛することは、行動することと言ってもよいと思います。

この体験から、私が行動し続けられなかった、もう一つの原因が、人を愛することができなかったことにあると、確信しました。

このように、私が、長い間、苦しまなければならなかった原因は、愛することができず、行動し続けることができなかったからだと思います。もともと、人の思惑を気にして行動することに強い抵抗感のある私が、自分の心の事実を否定し、自分の感情を押さえ込み、まわりの人に共感を持つことができなければ、行動し続けられるはずがありません。

私は、自分を愛することも、まわりの人を愛することもできずに生きてきました。それゆえに、なすべき行動を続けることができず、闇の中をさまよってきました。

しかし、今、愛を体験したことにより、人生観が変わりました。私が生きていくうえで、この二つの愛こそが、なくてはならないものだったのです。

そして、この二つの愛のなかを歩めば、自らを深く信頼し、他者に深い関心を持ち、共感に溢れた、自由で自然な行動ができるようになると、信じられます。ここに、私は、夜明けの光明を見いだしたのです。

とはいえ、長い間、私を苦しめた癖は、そう簡単に払拭することはできません。山が来て、谷が来て、往きつ戻りつの毎日です。でも、私は、私の心が流転していることを、はっきりと意識することができます。心が一所に留まらず流転していれば、どんどん新しい気づきがあり、愛することの大切さへと、私を引き戻してくれます。

自分を愛し、人を愛する、そして行動する。この道を、これからは歩んでいきたいと思っています。