体験記一覧[抑うつ]

二度のうつを乗り越えて(D・Yさん・40代・教員)

 うつ病の診断を受け、2度の休職、復職を経て、教員生活ももうすぐ20年目を迎えようとしています。就職したころには想像もしていなかった、山あり谷ありの教員生活と、それに至る経緯を振り返ってみたいと思います。

人生初の挫折

 小・中・高と、わりと大きな不満やトラブルもなく順調な人生を送ってきました。大学受験も成功し、かねてより希望していた環境問題の研究をすることとなりました。まずまず優秀な成績を修めることができ、教職課程も修了し、大学院へ進学しました。しかしそこで人生初の大きな挫折を味わうことになります。

 大学院に進学するぐらいですから、同級生はみな優秀でした。周囲に比べると研究結果もなかなか出ません。月に2度の研究発表会では針のムシロ状態で、先生や同級生、下級生からの視線が非常につらく、小馬鹿にされているように感じてしまいました。次第に研究室に行くのがしんどくなり、図書館にこもることもありました。

 いよいよ精神的に追い詰められ、思い切って心療内科を受診しました。20数年の人生では縁もゆかりもなかったところで、病院探しも難航し、一歩踏み込むのにかなりの勇気が要りました。

 「うつ病の傾向がある」といわれ、弱い抗うつ剤を処方されました。幸い教授は優しいかたで、叱咤激励はされるものの、頭ごなしに叱られることはありませんでした。親にも話し、服薬しながら何とか通学を続け、無事卒業できました。修士論文発表が終わった後は、本当に

天国に上るような開放感を心底味わいました。

教員生活と2度目の挫折

 就職難の時代でしたが、幸い教諭として採用されました。1年目から担任としてクラス運営を任され、当然ながら失敗の連続です。しかし、若さのおかげか、うまく先輩の先生や上司の助けを得て、年月と経験を重ねていきました。人に頼るのが苦手な人もいますが、私の場合はそれに抵抗がなく、わからないことはわからない、できないことはできないと、先輩がたの懐に飛び込み、教えを乞うことができたのが幸いしたと思います。

 9年目には、3年生の担任を持ち、さまざまな仕掛けが功を奏し、予想以上の進学実績を上げることができました。校長先生からも高く評価され、翌年特進クラスの担任を任されることとなりました。しかし、ここで2度目の挫折を味わいます。

 特進クラスとはいえ、指導困難な生徒が複数おり、9月ごろから精神的に余裕のない日々を送りました。仕事量も格段に増え、待望の長男が誕生しますが、状況が変わるわけでもなく、時間的にはむしろ余裕がなくなっていきました。

 11月に入って、とうとう自分でも精神的に追い詰められてきていると感じるようになりました。

 4月から正直少し天狗になっていたのが、強い自己卑下を感じるようになり、希死念慮も出てきました。たぶん真っ青な顔をしていていたのだと思います。一人ではもう我慢の限界になり、現在通っている精神科のクリニックをはじめて受診しました。医師より「典型的なうつ病ですから、即、休職してください」と言われました。自分としては、「情緒が安定していないから精神安定剤を飲みましょう」ぐらいの診断になると思っていたので、かなり驚きましたが、一方ではそうだなと納得しました。翌日さっそく校長先生に診断書を提出しました。幸い近い時期に同じような先生がいたので、スムーズに理解していただけ、休職に入りました。

 結局、11月から2カ月の休職期間に入りました。「体と心はつながっている、体を動かして軽くなれば、心も軽くなる」とカウンセリングやクリニックでアドバイスをもらい、ウォーキングをしたり、鍼灸に通いました。そして1月に復職し、新学期を迎えます。ここから3年間は担任を外してもらえました。

 新年度(復職1年目)は、薬の影響もあって、職場でもうたた寝したりなどして、体重も現在より10㎏ほど重かったようです。3年間で少しずつ減薬を進め、ほぼ3日に1回程度まで減らせました。この間は、書物を読みあさり、インターネットで情報を探し、わらにもすがる思いで何でもやりました。認知行動療法にも取り組みました。

 つらい体験だったのですが、考えようによっては、妻の出産直後から3年間、クラス担任がなく、比較的家族との時間が取れたことは、もちろん職場やまわりの人には大変申し訳ないのですが、何かのめぐりあわせであったと、今では思っています。息子が誕生したときは、今の状態のこんな自分にちゃんと育てられるのか、不安しかない毎日でしたが、この息子の存在が、私の支えとなっていきました。

森田療法との出会い

 3年間クラス担任を外していただいた間、ネットや書物などでうつ病のことを調べました。「認知行動療法」というキーワードはよく出てきましたが、通っていたカウンセリングルームではじめて「森田療法」ということばを聞きました。そのときは時間に限りもあり、詳しく話は聞けませんでしたが、カウンセラーの先生に、現在私が所属しているN集談会を紹介していただきました。私には向いているだろうと勧めてもらい、日程や場所も教えてもらいましたが、森田療法に関する予備知識もなく、そのときは1度行ったきりで継続はしませんでした。

 カウンセリングや、体を動かすことを意識して日々を送り、かなり回復を実感していました。

3年のブランクを経て、校長先生から、翌4月から担任への復帰を打診され、自信がないまま4月から1年生の担任を持つことになりました。

 新学期を迎え、4月早々、クラスでトラブルが起こりました。生徒対応、それに保護者対応に追われ、どんどん気持ちに余裕がなくなってきたのです。一日中クラスのことが頭から離れず、家でも緊張が抜けず、体に力が入ったままで、夜もよく眠れず。「どうしよう、どうしよう、どうしたらいいんだ」と思い続け、もう気持ちが続かず、パニック症状に近い状態でした。

 「このままでは危ない」と自分で思いました。通院を続けていた精神科の先生にSOSを出し、休職の診断書を書いてもらいました。

 2回目の休職になるので、さすがに校長先生をはじめ何人かの先生からはチクリと言われましたが、とにかくもうどうしようもありません。動悸、息切れ、目まいもしてきました。このままでは確実に倒れてしまうと思い、2度目の休職に入りました。「これが最後だ」という周囲の視線を日々感じました。

 1回目と違った点は、体にいろいろと影響が出たことです(調べてみたら自律神経失調症とよく似た症状でした)。具体的には過呼吸(呼吸が浅くてしんどい)、それに肩、首、背中のコリとハリ、それに動悸です。鍼灸やスポーツクラブ、カウンセリングに通いつつ、このころから集談会にも毎回行くようになりました。最初は足が重く、出席する意味もなかなか見いだせなかったのですが、幸い同業のかたもおられ、また、さまざまな立場のかたの体験や悩みを聞いたり、私の近況報告にアドバイスをいただいたりしました。そのうちに、月に1回の集談会の場が、仕事や家庭の悩みから一時でもホッとできる、かけがえのない場になっていきました。

再復職

 7月に入り、通常授業が終わってから職場復帰しました。

 2、3学期はまさに針のムシロで、人(生徒もだが、どちらかというと先生)の目がとにかく気になりました。すれ違う先生の視線や、ちょっとしたことばの一つ一つが、責めているように感じました。しかし集談会でのアドバイスや、森田療法のことばを思い出し、とにかく目の前のできることだけをがむしゃらにやる、できないことはできないという気持ちでやりました。

 荒れたクラスの授業もあったりして、気持ちはしんどかったですが、自分なりに無理をせず、ベストを尽くすことだけを考えて過ごしました。

 3月末になると、来年度の時間割編成があります。全クラスの時間割を決める、質・量とも、かなり負荷の高い業務ですが、この年は責任者を任されました。この業務は何年もやっており、慣れていますが、責任者となるのははじめてで、「上手くいかなかったらどうしよう」との強いプレッシャーで、眠れない、肩こり、動悸、過呼吸など、体に不調をきたしました。何とか無事終わり、4月がスタートしますが、体の不調は続きます。特に肩こり、背中の痛みがひどい状態でした。

 また3年間、クラス担任を外してもらい、休職して4年目の4月から、2度目の担任復帰となりました。校長先生と相談のうえ、これまでで一番経験のある3年生の担任にしてもらいました。当然ながら、周囲にはかなり不安を与えていました。

 このときに心がけたのは、目的本位で、よけいなことを考えずとにかく目の前のやるべきことを着々と淡々とやるようにしたことです。また「外相整えば内相自ずから熟す」、そして「健康人のような生活をしていれば健康になる」でした。内面は改善のしようもないので、とにかく睡眠、食事をしっかりとり、外相から(だけでも)整えようとしました。平行して、集談会で月に1回、みなさんに現況を聞いていただく、アドバイスをいただくということを続けました。

 1年間山あり谷ありでした。特に文化祭、体育祭のような学校行事が近づくと、眠れない日が続きました。予期不安が頭から離れず、朝になっても生徒は来ない、行事が始まってもまったくやる気なく指示も聞かず、大失敗に終わる……、そんな夢を何度となく見ました。

しかし、心配はいずれも杞憂に終わりました。すべての行事は大成功に終わり、特に文化祭の摸擬店では、普段、協力的でない生徒たちも、クラスが(それなりに)団結してかなりの売り上げを出すことができました。クラスでのトラブルも何度かありましたが、「後になって苦しむぐらいなら、先に苦しんでおいた方がまし」と思い、困難からも(なるべく)逃げず取り組んだ結果、大きく崩れることなく乗り切れました。

 もう2度白旗を挙げているので、怖いものはありません。学年主任をはじめ、頼れる人には頼り、悩みを聞いてくれる人には話し、かつて持っていたプライドを捨てたことがよかったのだと思います。

 そうして迎えた久しぶりの卒業式は、何とも言えないものでした。1年間何とかやり遂げたという安堵、そして、かつて2度、担任をやり遂げられなかったことを知っている周囲の人たちの祝福を受け、本当に1年間、しんどいときもあったががんばってきてよかったと心底思いました。

 月に1回の集談会にはほぼ休まずに出席したのも、1年間続けられた大きな要因だと思います。このころにはかなりうつ症状は良くなっていましたが、症状が消えたとしてもこの集談会に出席し続け森田療法の勉強を続けることが、再発を防ぎ、よりよく生活していくために必要なことだと思いました。

2度目の復職で迎えた試練

 この1年は、目に見えて、あるいは目に見えないところで、多くの先生がたの配慮があったことをヒシヒシと感じていました。そんななか、なまじうまくいったせいか、「もう大丈夫だろう」と皆から思われ、翌年もまた3年生の担任をすることになりました。正直いくらか自信も取り戻しており、「慣れている3年だし、去年もやり遂げられたし、大丈夫だろう」と甘く考えていました。

 昨年度ほどの目に見えた配慮はなく、また私がかつてダウンしたことを知らない若い先生もふえてきたなかでの新年度のスタートです。クラスの生徒編成も、復帰1年目は配慮していただいたのですが、2年目ということで指導が難しい生徒もいるクラスでした。

 昨年と同じようにやっても、なかなか話が通らない、そもそもしっかり話を聞くことができない生徒がたくさんいました。もちろん向学心もあり、生活態度もキチンとした生徒もいるのですが、どうしても前者の方にばかり目がいき、少しずつしんどくなっていきました。

 そうはいいながらも、昨年の経験を生かし、苦手な学校行事は一つ一つクリアしていきました。何となく勢いでやるなど、とてもできず、事細かに役割分担、タイムスケジュールなどを決め、予定どおり無事こなしては胸をなでおろす、その連続でした。神経質のいい面がでたのかなと前向きに考えています。

 2学期に入り、大学推薦入試が始まり、卒業も近づいてくるので、目に見えてクラスが落ち着きをなくしはじめました。授業をする先生がたも、同情や慰めの声をかけてくれるようになりました。体育祭では優勝を飾り、これでクラスの雰囲気も良くなってくれればと願いましたが、残念ながら大きく改善されることはありませんでした。

 11月になると、しんどさがピークになり、かつて休職したときと同じような感覚になりました。かつて私が倒れたときのように見受けられたようで、多くの先生がたが心配して声をかけてくれました。私からも、気心の知れた先生には相談(というか愚痴)を聞いてもらうようになりました。

 通院しているクリニックで相談したところ、「仕事のなかで一番しんどいのは何か」と尋ねられました。「クラス担任です」と答えると、主治医は、「他の業務はできるのであれば、このまま仕事を続けるため、担任だけでも外してもらえるように校長先生にお願いしてみたらどうだろう」と言ってくれました。

 いえ、そう言ってほしかったのだと思います。我が意を得たりと思い、集談会でその経過を報告しました。しかしここで、賛同を得られると思っていましたが(願っていましたが)、思わぬ意見をたくさんいただきました。

 特に私と同じく教員をしているかたからは、「ここで逃げたら、今はしんどい現状から逃れられたとしても、今後もっとしんどくなる」と言われました。正直一刻も早く現状から逃げ出したかったので、「このまま担任を続けるべき」には素直にうなずけないものがありました。

 日曜日、悩みに悩みました。そして「来週は校外学習がある。今担任を交代してもらったら、さすがに次の先生に迷惑がかかる。とにかく、校外学習が終わるまではやろう」と決意し、白旗を挙げるのは少し待ちました。

 それからの数日間はとても長く感じました。が、心配していた校外学習も、やはり多くは杞憂(きゆう)で、無事に終わり、心のつかえがかなり取れました。「2学期の授業も残り1カ月。次に倒れるまではやり抜こう」と決意しました。ここからの1カ月はとても長かったです。1日1日、指折り残りの日数を数えていました。とにかく倒れて担任交代というのだけは、避けたかったのです。つらくなってきたら同僚を頼り、なるべく早く帰るようにして、何とか体調と気持ちを

整えながら乗り切っていました。

 そうして何とか2学期を終え、年末年始は一息つくことができました。3年生の3学期は短いので、ここまできた勢いで乗り切り、無事卒業式を迎えることができました。それまでとは違い、あまり達成感や充実感は感じられない卒業式でしたが、とにかく今日で終わる、今日1日で終わるということだけを考えていました。

集談会を寄る辺として

 あそこで白旗を挙げていたら、きっと「踏ん張りきれなかった」という嫌な記憶だけが残っていたと思います。集談会で話したとき、「どうして賛同してくれないのか」と思いましたが、今となってはあのとき、耐えしのげて本当に良かったと思っています。まだまだ、これからも長い教員生活を続けていくなかで、きっと困難な局面にも出会うこともありますが、このとき乗り切れた体験は、大きな自信になると思います。

 2年間3年生の担任を終え、今年はクラス担任を外れ、部署の責任者として主に注力することになりました。既定路線の人事ではありましたが、昨年度クラス担任をやりきったからこそ、胸を張って業務に当たれます。今後の教員生活のなかで、当然、またクラス担任を持つこともありますし、そもそも担任以外の業務でも思うようにいかない困難なことは、当然出てくるでしょう。また子を持つ親としても、「かくあるべし」の思い込みから、精神的に落ち込むようなこともあるかもしれません。

 集談会に出席するようになり、何年もたちますが、まだまだ勉強不足だと思っています。職場と家庭の他に、もう一つの寄る辺としてこの集談会での出会いや森田療法の学びを大切にし、充実した日々を送りたいと思います。

人生・ひといろいろ(H・Sさん・男性・42歳・会社員)

生い立ち

 私の祖父は、樺太(現サハリン)で農業と商店を営んでいたそうです。しかし昭和20年8月15日の終戦で、財産など最小限を持って引き揚げ、K市で過酷な生活を送ったと聞きました。その後、持ち前のがんばりで、小さな街で食料品店を営み、人並み以上に働き、まずまずの成功を収めました。

 そんな祖父の店を継いだ父は、祖父の影響もあってか、身内には厳しく、他人には優しい人でした。商売第一で、親子で買い物に行ったり遊んだりした記憶はありません。私と三歳下の弟は、休みになると商店の手伝いをさせられ、手伝いをサボると倉庫や地下のムロに押し込まれたこともありました。ただ、まわりには、ちゃんと筋をとおす人でもあり、ときには優しいところもある、今となっては尊敬する父です。

 母は優しい人で、幼いときは父親より母親といつも一緒にいました。母は今でも父のよきサポート役で、店の事務を取り仕切っています。

 私は性格的には母に似ているようです。父は今年71歳、母は68歳になります。父は2回の脳梗塞を患いながらも、幸い生きる気力があり、現在も店を営んでいます。寒くなる季節や調子が悪いときなどは、私も市場での仕入れや配達などの手伝いを行っています。

成長期

 私は、「長男は店の暖簾を受け継ぐのは当たり前」と言われて育ちました。今思えば、幼少期から「かくあるべし」の素地は、あったのかもしれません。保育園や幼稚園のころから店の手伝いが優先でしたので、手伝いをさせるため祖母がわざわざ迎えに来るほどでした。同年代と一緒に遊んだのは、保育園や幼稚園の時間のなかだけでした。

 小学校時代は、とても楽しかったです。ただ一つだけ、今でも脳裏に焼きついている出来事があります。それは小学校3年生の時の「お漏らし事件」です。授業中、おしっこを我慢しすぎて、漏らしてしまったのです。先生は私に「おしっこは自分で掃除し、みんなに謝りなさい」と命令しました。私は床に漏れた尿の処理を自分で行い、謝りましたが、自分にとっては非常にショッキングで、親にも誰にも言えません。クラスのみんなから馬鹿にされ、とてもつらかったです。

 そのころから対人恐怖がはじまっていたのかもしれません。また、誰かが自分のことを馬鹿にしているのでは、と人の思惑を気にしたり、誰かが自分のことで何か言っているのではと妄想したりも、あまりひどくはないのですが、度々ありました。

学校生活から社会人へ

 小学校時代からサッカーをはじめていましたが、中学生になると、仲間と一緒にいるときは普通に振舞えても、初対面の人や、きれいな女の子がいると意識してしまい、緊張して脚がガクガク震え、何を話していいかわかなくなる症状が出はじめました。

 高校受験は、自分の志望校に提出の予定が、三者面談の際、担任から合格ランクを落として地元の高校を受けた方が良いと言われ、その方が無難との母親の判断で、直前に志望校を変更しました。きっと父母は世間体を考えたのでしょう。合格しましたが、仲が良かった友だちと離れるショックのほうが大きかったのを、今でも覚えています。

 高校に入ると、将来の進路のことも考えて勉強に打ち込みました。ただ、なかなか友人ができませんでした。はやく卒業して地元から抜け出せば、何かいいことがあるんじゃないか、とずっと考えていました。中学までやっていたサッカーも、高校に入るとやめてしまい、部活には入らず、3 年間は帰宅部で、ひたすら勉強と店の手伝いをやっていました。

 高校から、経営の勉強をするため札幌市にある専門学校に進学しました。札幌は都会で、学校には道内各地から学生が集まります。新しい生活がはじまると心機一転、がんばってコミュニケーションを良くしようと思いました。しかし、なかなか思うとおりにできず、内向的になり、自分から話かけることがだんだん減ってきました。自分以外の人が怖くなり、人に何か言われるのではと、予期不安が出てしまったのです。

 授業中、班グループで作業をしたり、意見交換したりする際にも、なかなか自分の意見が言えず、他の人が嫌な作業や発表などを自分から引き受けて、何とかグループに繋がっていました。

 専門学校時代には、独りぼっちのことがたびたびありました。2年目の卒業研修の際にも、本来グループ行動が原則でしたが、ほとんどは単独で研修、観光を行っていました。

 専門学校を卒業し、就職氷河期のなか、何十社も就職試験を受けたのですが、なかなか内定はもらえず、やっと地方の土木資材商社へ就職することになりました。

 求人票にはルートセールス(得意先廻り)と書いてあったし、入社試験時に新規営業はないとの話を聞いていたこともあり、何とかなるさと不安を抱えながら入社しました。

 新米の私に年上の主任が一緒に付き、手取り足取り、いろいろ仕事を教えてくれました。しかし、会社では学生時代のようなペーパー試験はなく、会議での報告や顧客とのやり取り、商品の説明など、コミュニケーションが苦手な私は、自分は本当に大丈夫だろうか? 失敗したらどうしようと、学生時代の予期不安が再び湧きあがり、ノイローゼ気味になりました。

 そこで、当時住んでいた街の精神科の門を叩き、薬物療法や精神療法も受けたものの、不眠や仕事への意欲がだんだんなくなっていきました。

 年々ノルマは上がっていき、2年目で20億円を課せられ、ますます頭がおかしくなり、2年でその会社は退職しました。

転職と転勤

 たまたま現地採用の求人募集で農業関連会社に入社、配送の事務職を行う仕事に就きました。地元採用とルートセールスで培った町村や道路などは、自分の仕事をやる上でも非常に大きな財産と思い、仕事に没頭しました。

 その後、人事異動でT市に移り、同じ輸送指示の仕事と管理の仕事を行うことになりました。転勤した当時は25歳、まだ若かったのか、上司へいろいろ意見など言えるようになり、時には口論になったこともありました。

 その数年後、上司が転勤となり、私がその上司の仕事を引き継ぎ、新しく運行管理という仕事を任されることになりました。そこで、仕事をどのように行っていけばよいかと、いろいろ考えだし、以前の商社で働いていたときのことも思い出し、すっかり予期不安が再発してしまいました。

 問題が起きたとき、どうすればよいのだろう? ガイドラインがない場合の職務の遂行は? なければ自分が作らなければならない? などと疑問がどんどん湧き出てしまい、会社には体調が悪いと言って、T市の心療内科に通うこととなりました。そこでは薬物療法が主でしたが、対話療法を取り入れてもらい、月2回通院し、少しずつ回復してきました。

 何とか慣れてきたと思っていたとき、今度は本店へ異動することになりました。本店は、地方の事業所とは違って人が多く、アットホームな感じがないなかで、勤務しました。

 そのうち、今度は管理業務から外れることとなり、配車業務のほかに新しい仕事がふえることになりました。

 札幌勤務が1年を経過したころ、結婚しました。他人同士が一つ屋根の下で住むことになり、夫婦喧嘩もありながら、何とか一歩一歩進んでいきました。

状態の悪化と入院

 そして、ある業務上の事故処理に当たっていたときです。事故処理方法の仕方が悪いと、当時の役員から頭ごなしに叱責されてしまったのです。私は、現場の意見を最大限尊重し、事故処理をいかに迅速に対応するかに焦点を当てて処理を行っていました。自分なりに一生懸命処理に立ち向かっていましたので、役員からの叱責には、あまりのショックで、「自分が悪い」と自分を責めることが何日も続くようになり、体を動かすことができなくなりました。会社に行けば何か言われるのでは、という予期不安もあり、思い切って短期休暇をもらいました。そして妻にも、独りにさせて欲しいと了解をもらい、実家で

約2週間静養を行いました。

 しかし、体と心のバランスがうまく調整がつきません。焦った私は今までの心療内科を変え、違う病院で、今の自分を変えたいと思うようになりました。早く治したい一心で、妻と一緒に市内の心療内科・精神科を電話帳で調べ、片っ端から電話をしました。「今から受診したいのですが?」と言うと、「早くて1カ月待ちです」と言われ、途方に暮れる日が何日も続きました。

 私には「何もやる気がなく、すべて放り出したい」と、一方では「早く治したい、妻と新婚生活をしたい」という気持ちもあったのでしょう。病院を探していくうちに、やっと1カ所、見つけることができ、妻と二人ですぐその病院に行きました。「うつ病です」と診断され、入院と言われました。

 後から聞いた話ですが、私は診断名がついたとき、素直に「わかりました」と言って、自分で入院申込書にサインと捺印をしたそうです。そのときはきっと「生の欲望」が強かったのでしょう。

 入院手続きを終えて、病棟に入る前、所持品検査が行われました。携帯電話、現金、本などはすべて没収され、寝間着に着替え、ナースステーションから急性期病棟(自殺や事件を起こす危険性がある患者が入る病棟)に入りました。鍵が閉められ、まるで、ドラマに出てくる刑務所みたいな鉄格子がナースステーションの内側には張られていて、大変な恐怖を感じていました。入院期間1カ月、これからどんな生活になるか、心配性の私にとって非常に苦痛であったことを思い出します。

 入院開始後、約1週間は、慣れるまで不安な日々が続きました。鍵の開錠される際の「カチャ」の音に敏感となり、不眠が続きました。

 そのようななかで励ましてくれたのは、妻でした。毎日の面会と差し入れなど、本当に頭が下がります。家事、私のこと、そして会社の上司との連絡など、いろいろと苦労をかけて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 入院のときは、どうにでもなって、この世からいなくなったほうがいいと思ったりしましたが、やはり妻がいたからこの難関を乗り越えられたと思います。

 会社は、今までうつ病を抱えた従業員に、何をしてよいのかの経験がないのが実情でした。しかも役員の叱責が原因だったことであり、私がうつ病で入院したことは外部には漏らさないようにしていました。今思えば、世間の目線が気になったのでしょう。

 入院生活では、他の入院患者と接する機会がだんだん多くなってきました。いろいろなことをお互い話し、一緒になって問題解決をしようと、毎日話をしていました。

 閉鎖された病棟のなかでも人間関係があり、自分の話を聞いてくれて、また、聞き役になることで、お互いがWin━Winの関係になることの大切さを、入院生活で学びました。

 入院時に毎日書いていた日記に、次のようなくだりがあります。

 「人間、生きている人の99・5%は悩みや不安がある。安定することの難しさが、心の不安定になる。みんなが持っているものだし、自分だけではない。悩むのは仕方がない。人間は、そういう動物なのだから。しょうがないことや、自分で受け入れて、解決できないことは、社会や世間のなかで、支えてくれる人や癒されることがあれば、多くの人はバランスを取り戻し、元に戻ることになる」

 この入院の際の患者会が、癒しでもあり、一つのよろず相談会である、と私は感じていました。

退院から職場復帰へ–新たな行き詰まり

 1カ月間の入院生活を終え、会社復帰のステップとなりました。病院のスタッフや妻は「大丈夫だろうか?」と私を案じながらも、家から送り出してくれました。

 会社に着いて、所属部署の一人ひとりに「いろいろ迷惑をかけてすみません」と頭を下げて自分の席に戻りました。

 上司との最初の面談で「今、何パーセントの回復率か?」と聞かれ、私は答えることができませんでした。答えて、「まだこの回復率か」などと言われるのも嫌だったのです。上司は非常にせっかちな人で、入院前までは、気さくなかたと思っておりましたが、このことばで距離を置くことになりました。

 毎月、毎月、その上司から「回復率は?」と聞かれ、「もう言われたくない」という気持ちになった私は「ほぼ満点に近い確率で回復しています」と言ってしまったのです。私は、自分で自分の首を絞めてしまったのでした。

 その後、少しずつ仕事量がふえていきました。そして自分のペースを掴もうとしていた矢先、業務の変更を命じられたのです。私が未経験の、危機管理・安全対策の仕事でした。毎日、毎日、朝から晩までパソコンに向かい、事故やトラブルが起きたときの対処方法を、事柄順にマニュアルを作成する仕事です。心配性だし「こうでなければならない」という型にはまった性格なので、仕事的には合っているとは思いました。

 しかし、すぐには慣れません。新婚でもあり、仕事も家庭も一生懸命やりましたが、今度は子どもがなかなかできないと、自分を責めるようになっていきました。

 その頃は、妻も、早く子どもがほしいと、いろいろ相談したり、行動したりしていたのです。私は自分を責め、会社帰りの駅ホームから飛び降り自殺を試みたこともありました。今度は自分を責めるのは、一生治らないものだと、さら自分を責める始末でした。

発見会との出会い

 このような状況のなかで、会社の福利厚生の一環で、メンタル相談を外部委託する制度を開始する旨、社内通信が流れてきました。相談は無料、会社が外部委託している心療内科の臨床心理士が面談するといった内容でした。私は早速その制度を利用して、メンタル相談を受けることにしました。

 後日、マンションのある一室に呼ばれ、臨床心理士との面談が行われました。幼少期、小学校、中学校、高校、社会人に入ってから今の状態を説明しました。

 その際、うつ病で入院していたとき、患者同士が身近に接し、お互い利害関係なく話した体験を話し、「同様の患者会などはありますか?」と聞いたところ、「生活の発見会というのがあるよ」と紹介されたのです。

 インターネットで調べ、ホームページのほか、〝生活の発見会 宗教〟などといった検索結果が出てきて「怪しい団体かも?!」と思いながらも、札幌初心者懇談会に参加することにしました。

 会場の前では、そわそわし、まず、入室するまで、とても緊張しました。予期不安も出て、何を話していいのか、頭のなかは真っ白になりました。

 でも、懇談会では、そんな私を温かく迎えてくれました。代表世話人さんが「ここで話すことは外に出ません」と言ってくれ、ひとまずホッとしました。そして、一生懸命話すのを聞いてくれました。話すたびに涙が溢れてきてしまいました。会社の人に言えない、妻にも、これ以上迷惑をかけられないときに、理解してもらえ、つらさを共感してもらえて、とても嬉しかったです。

 初心者懇談会に3回出席したのち、集談会に転籍となりました。集談会には仕事や子育てで忙しいとき以外は出席し、諸先輩がたのアドバイスや発見誌などにアンダーラインを引き、まるで学生に戻った感じになりました。

 札幌で集談会に所属し、2年後にO市に転勤となりましたが、O市にも集談会があるのを知っていたので、いろいろ相談できる場があると感じていました。その聞き役が代表幹事や先輩の皆さんでした。子育て、仕事、人生相談など、多種多様に相談に乗ってもらえ、豊富な人生経験があるかたがいて心強いです。

 独りで何回も発見誌や森田療法の本などを読んでも限界があります。集談会で自分だけじゃない、こういう考え方があるんだと皆さんの話を聞くことが、すごくためになります。

 もっと早く発見会を知っていればよかったと思いますが、少しずつ自分が変わってきているなと思っています。今までのように、何事も急ぎすぎた点を見直し、とにかくゆっくりと行動に移すよう、日々努力が必要と考えています。

 まだ、現在も「抑うつ」と診断され、通院はしていますが、少しずつ自分が変わっていくためにも集談会に参加したいと思います。